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不登校経験を経て社会人となったやつらの発信活動

可能性の芽を伸ばせ

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芽はやがて成長し幹となる。自分の芯になり得る可能性の芽だよ

僕は何度も失敗を重ねて、そこからしか学べなかった。
故に多くの人に迷惑をかけてきて、未だに堂々と人と接することができるかと言うと正直不安の連鎖だよ。
 
時間は不可逆で待ってくれない。身体は成長し、大人になっていく。精神的にはまだまだ未熟だしどこまで自分が、社会に貢献できるかも未だに手法すら見えていない。
 
でも、一つだけ変えたくない指針があるんだ。
迷惑をかけてきた分、人の役に経つにはどうしたらいいか。
誰かの支えになれる活動の一歩として、このブログを始めて自分の体験談を元に認めてきました。そこには偏りがあるでしょう。だって僕の経験だけだもの。もちろん、他の人からのアドバイスも織り交ぜているけれども、最終的に執筆するのが僕だから。
 
正直、毎回、配信して良い内容であるのか不安だ。そして恥ずかしい。
過去の経験を世間に暴露するようなものだもの。SNSとも連携し、実名を公表している。
それ故にここでの発言には、責任を伴う訳で、嘘はかけない。
 
だからこそ、生の
生々しいような過去を事実として、書き続けているんだ。
背水の陣とまではいかないけれど、今までの経験から、仕事にも支障が出たこともある。
全く知らない誰かが、自分が精神障害者であることを知られる、不安な気持ち。
 
でも、だからなんだ!保身じゃないか。
もしも、このブログを続けるならばできる限りリアルな体験談を書きたい。
その一心で90もの記事を書き上げてきた。
 
節目である故、今日はちょっと心にしまっていたことを告白しようと思います。
 
それは、高校生までずっと親にも友だちにも、学校の先生にも仮病を使って学校へ行かなかった、行けなかったと言う事実があることです。
 
仮病を使った理由は学校へ行くと、どうしても自分が浮いてしまい。
省かれているような、露骨にいじめのような体験を受けて僕は逃げる方法を模索していました。そこで浮かんだのが仮病だったんだ。同窓会で二十歳になった時に担任だった先生に再開した。その時、「休んだ理由は本当はなんだったの?」と訊かれ仮病である事実を伝えた。その時先生は、寂しいような、悔しいような表情を浮かべていたのが今でも心に過るの。
 
何故、自分は虐められている事実を
学校へ行きたくないと言う気持ちを両親や先生に正直に伝えられなかったのか。
 
プライドだった。
 
多感な時期である。そして成長の真っ只中である中、成績、身体能力、全てが数値化されて評価をもらうのが怖かった。だって休んでいる以上、オール1だもの。
僕の場合、言いたくても言えない、助けを求めたい、そうした気持ちではなくて、周囲から比べて自分が劣っていることを突きつけられプライドを傷つけられるのが怖かったんだ。
 
そして、僕は中学生時代は部屋に篭る日々が続いたの。
現実逃避をする為に、本を読んだ。ゲームもした。でもちっとも楽しくなかった。
罪悪感と将来の不安に駆られながら僕はその当時を過ごしていたんだ。
 
本当の自分の気持ちをカミングアウトするのは大変だった。
僕の場合プライドだけれど、中にはコンプレックスの塊や、傷ついた心を癒す為に心を閉してしまう人もいると思うの。だから、理由は本当に人それぞれで不登校の課題を解決するには難しい。現場の教員も多くのタスクを抱えて教育現場は疲弊している。
 
その中で、どうやって心の扉を開くの?
僕は開けなかった。解決策として、本人が胸の内を打ち明けることが1番の近道だと思うの。近年はフリースクールやデイサービスといった、ケアサービスが増加傾向にある。
 
そこでね、これを読んでいる学生や社会人の方に向けて伝えたいメッセージがあるの。
僕は後悔したことなんだけれど、何故、もっと早く両親に胸のうちを伝えられなかったのだろうか。先生に相談できなかったのだろうか。理由は明白だ。プライドが邪魔をした。負けず嫌いなのは今も昔も変わらないけれど、弱みを見せる勇気が当時はなかったんだ。
 
そう自分の弱みを晒すのはとても勇気がいることだと思うの。
でもね、死ぬ勇気があるのならば、弱みを晒す勇気は十分あるよ。
将来も広がるしね。
 
何度も死のうとした。建物の屋上に立っては足がすくんで飛び降りれなかった。
 
そもそも死ぬ勇気ってなんだ、死ぬ勇気があるのならば、なんでもできる気がするの。
だって命を絶つか絶たないか。とてもじゃないけれど、そこまで追い詰めている人がいるのならば他意はなく純粋な気持ちで抱きしめたい。
 
あなたは1人じゃないんだよ。
だって周りには家族がいるじゃない。
家庭の事情で、そうじゃなくても行政で相談にのってくれる期間もある。
僕が学生だった15年前に比べて今はとても、ケアサービスが充実しているように感じる。
 
学校や会社が全てじゃない。
そもそも、この世界に、産み落とされたこの命を、奇跡だと思うの。
生きていれば、友だちとの出逢い、将来を共にするパートナーが今もどこかで生活している。いつ、どこで出逢うのかは分からないけれど僕はそんな奇跡的な将来に希望を抱いて欲しいの。
 
そして、学校や会社が全てではないと書いた理由は。
そもそも人生の大半は勉強する、働く、食事して寝る。のサイクルだ。
でも、勉強が合わない。仕事に恵まれない人も少なからずいると思うんだ。
僕は勉強が嫌いだった。仕事もちょっと嫌かな。
 
そんな時に考えるのは僕の人生、嫌な環境で嫌なことを強いられる場所で生きていくのはどうなのか。ある程度の教養は必要で、資本主義社会ではどうしても稼ぎが必要だ。
でも、苦手は苦手で吐露して良きと思うの。そうしたら、これからは令和の時代。
 
良い大学に出て大手に就職すれば安泰なんて社会的風習は薄れつつあるの。
じゃあ、今後は何が評価されるの。多分だけど。「あなた自身の個性」だと僕は確信しているの。趣味や好きなことが仕事になることもあるこのご時世だもの。
 
あなたは何をしたいの?
できないことはもう考えなくていいからさ。
 
苦手なことは苦手で、得意なものは得意なものであるんじゃないかな。
そこにフォーカスして伸ばす、伸ばせる環境を作って頂きたいのです。
 
悲観するよりも、できることから始めてみたらどうかな。
ゼロはゼロのまま。1に変える為には何が必要かと考えたら、自分の好きなことや特技を極限まで鍛え、追求すると良きではないでしょうか。
 
 
 
ちょっとずつ、そしたらワクワクしませんか。
行きたくないなら行かなくていい。でも自分の芽を探してみて。小さいことで良いの。
僕の場合、地図を見ると一瞬で方向が分かり、案内できた。そこから大学生になってツアーや旅行企画に興味を持って、未だにボランティアではあるけれどその活動を続けていて、生き甲斐の一つになっているんだ。
 
仕事や勉強だけが人生じゃないよ。
あなたらしさ、その芽を育み育てる意識を持ってみてはいかがですか。
 
髙橋直之

主語は「私」、少しわがままだと思われるくらいが丁度良き

こんにちは、たっきーです。
最近、DIYにハマっているんですよ。仕事や記事を書く合間に家で過ごす時間を豊かにするためにちょっとずつ家に手を加えています。
 
「好きこそものの上手なれ」
僕は仮想空間で仕事をするよりもリアルな達成感と、満足感が自分のモチベーションになっているのかな?と思うこの頃です。エンジニア家業も中々辞められないのは現実ですが、僕はいずれかはシフトしていきたいと感じています。
 
最近、考えることがあるんですよね。
 
「幸せ」てなんだろう?と

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立ち止まった瞬間に考える。時間が環境が私を私らしさから忘れさせるような。感覚。
己の心が満たされた時に、幸せを感じるのか…
他人の吉報を聴いて幸せと感じるのか…
 
どちらも嬉しいけれど、正直僕は己の心が満たされることで幸せを感じる。
極論はそう思う。僕の場合はね。
公言することではないけれど、あえて言うならば結局、自分が大切であるもの。
 
だって、そうしないと”結果的"に心が満たされないじゃない?
誤解しないでほしいのは”結果的"にと言うこと。
 
結果を出すためには、必ず過程があるものです。
その過程の段階に自分は今居るのだなと、思うんです。
だから悩む、苦しむ、迷う、未だに社会人として曖昧なビジョンで生きている。
 
何故?
 
「幸せ」の意味に最近迷うし
僕は、1人ではない、親もいるし婚約者もいる。
この1年間で僕の人間関係は大きく変化したんだ。その前まではとにかく、借金を返済するのに精一杯で仕事に夢中する日々だった。ただそれが、目の前の課題を打開するために走り続けるしかなかった。
 
でも、その課題が無くなった瞬間に
モチベーションを失うと共に自由を得た。仕事に追われる日々から解放されて、次のステージを考える余裕ができたからだ。それが「幸せになりたい」と、言う感情。
 
ただ、ひたすら仕事、
そんな中で、僕の人間関係は、振り返れば仕事9割、プライベートが1割だったように感じる。だからと言って人間関係を全く蔑ろにしていた、とまでは言いたくないけれど、それは言い訳になるのでここまで…
 
最近は余裕ができた、少しずつ、仲間とコミュニケーションをとる時間を大切に思えた、家族や友人、恋人然り。でもそれは自分のエゴイズムでもあるの、仕事が理由でとか、障がいが理由で、とか遠ざけていた人間関係。そりゃ友だちも失えば、大切なヒトですら失うことになる。今更、後悔…どころか相手にとっては「なんだコイツ!」と思われて仕方ない。だから反省…?
 
はしたくないです。
寧ろ開き直っています。だって、そうする余裕と、心の許容範囲が無かった。
とても未熟な人間だった。と認めて、その時、僕は、そうするしかなかったんだ。
と、過去を振り返る。いや、開き直る。
 
以前のブログにも書いたけれど、反省は一度でいいと思うの。
だって、過去を反省して、将来に活かすのは良いけれど、反省しまくって次の行動に移せるモチベーションて持てるの?僕は持てないし、寧ろ自分をいじめる行為だと思う。
 
ならば、キッパリと目の前に広がる世界を見るしかないじゃない。
そこで一番大事なのは、常に主語は「私」であること
 
誰かに言われたから、誰かがこうしていたから
そんな考えでは少なくとも、僕は生きてこなかった。良くも悪くも全て自分が主語で、そうすることで自分の責任で人生の舵を切ってきたのだ。
 
でも、大した現在ではない。
寧ろ失敗だらけ、と言うか、未だに選択に悩み、苦しんでいる。
自分が拗らせ系キャラなのか?否定はできないけれど、敢えて否定しないのはそれも僕が選択した道で、今、その途中にいるから。
 
目的地?
課題を乗り越えるごとにそれは変わる。
そして今、ようやく、自分の人生を豊かに生きるにはどうしたらいいのか。
それはやはり、「幸せになりたい」「幸せにしたい人もいる」
 
心に余裕が生まれたことでステージは変わり、そしてまた新しい悩みを持つ。
選択の連続だよね。そこでやっぱり曲げたくないのは、「私」が常に主語であること。
誰かの責任にしたら、理想的な生き方に到達できないと思うんだよね。
それと、若しくは「私」が主語にならざるを得ない環境もあるの。自分本位に動いているように周りから見られる。でもいいじゃない?
 
僕はそう思う。周りは周りでしょう?
自分本位で捕らえられても、その時はそうせざるを得ない理由があるのかもしれない。
若しくは、自分の目標に達成するためにはある程度の利己的な思考も必要だと思うの。
 
優しい人ほど遠慮する。
遠慮する人ほど、損をする。
損をするほど、幸福感は減っていく。
献身的という言葉もあるけれど、でも献身はやめた方が良い。
何故なら、献身する相手がいるでしょう?何かうまくいかない時に相手の責任にスライドしてしまう。それこそが結果的に醜いし、不幸になる生き方だなと僕は思うの。
 
できるのならば、遠慮は程々に
遠慮なんてしなくて良き。空気を読めとか言われても、空気を作れるヤツが一番強いじゃん。だって周りが空気を読む文化なんだもん。僕が!!私が!!!こう思う!!!!
 
もちろんそれ相応の理由付け、論理的な考え方が求められるかもしれない。
でも、いいじゃない。そんな面倒なことを考えたって仕方ない。理由はただ一つ「私がその道を選んだから」でも、その代わり、責任は自分で負わなきゃいけないですよ。
 
でも、自由なんだよね。そう思考を変化させた時に
離れていく人や、そりの合わない人も主張すればするほど現れる。
でも、自分が思うことがあるのならば良識の範囲内で実行して良きだと思うんだよね。
そしたら、誰の責任でもない。自分の責任にすべてなるけれど、それだけ、選択の自由が選べると、そう感じたんだ。
 
でも、これは飽くまで個別の考え方で
未だに悪しき風習と言っていいのか、どうか、日本の組織社会では別問題。
「長い尾には巻かれろ」それが時に自分の出世や成績の為にはなるでしょう…
でもね、学校組織、社会組織、今の風習が崩れるのはもう目の前だと思うんだ。
 
その時に求められるのが、自分らしさ(オリジナリティ)
それを養う為には、主語を常に「私」として、責任を背負うだけ自由を得たら良きと思う。それが今後、社会的には求められる個人の在り方だと思うんだよね。
注意されたら、直ぐに謝るんじゃなくて自分の意図を伝えられるくらいの気持ちを持てたら理想だよね。どうしても、日本の社会は個性を嫌う性格がまだまだ多数派。
でも、将来を考えてみようよ。個性は個性として、評価される時代がもうすぐ側に来ている気がするんだ。だって某動画サイトで稼ぐ人もいれば、投資で稼ぐ人もいる。
個性派揃いだよね。でも、それが面白いって現在も評価されているから、それが仕事として成り立っちゃうんだよね。僕にはそこまでは突出できる勇気はないけれど。
 
でも、僕は僕が思う幸福を掴みたい。
その過程には、方法論として様々な選択肢がある。
時に、他人の幸せを優先する時もあるかもしれない。でもその先には自分の幸せがあると狙ってのお話でありまして、献身ではないよ。
 
それに近い有名な言葉があるじゃない
「情けは人の為ならず」
 
自分のためにかけるものであると昔の人も言うんだから。
目先の利益だけで動け!と言うメッセージではないんだよ。
優しい人でいいじゃない。でもただ優しいだけじゃダメだよ。って話。
 
人生の主人公は読者様、それぞれなんだから
主語に「私」を使わないのはもったいない気がするな。
 
髙橋直之

経験したヒトは強いよ、乗り越えたあなたはもっと強いよ

 
こんにちは、たっきーです。
今日は雨ですね。でも、最近晴れの日が続いていたから、たまには雨の音を聴きながら仕事をするのもいいものですね。
 
今回は、ちょっと仕事のスキマ時間に思い立ったことがあったので記事を書きます。
、と言うのも「経験は一生の財産だよね」と言う会話を仕事仲間と話していたのです。
 
もちろん仕事上の話だけれど、
でも、昨日書いた少しシビアな内容のブログ
 
そう言えば、昔ね、学生時代の頃に理解されなくてひとりぼっちでも
生きてきた自分の経験も、一つの財産だよね。と思ったのです。
実際はひとりぼっちじゃなかった。親に本音をぶちまけた、ぶちまけるまでがとてもね勇気がいったし、そう簡単なものではなかったよ。でも、そうして親と衝突して、実は親も悩んでいたことを知り、互いを理解できる一歩になったことは事実。
 
そしてこうした経験を書けるのは、やはり経験したからだと思うんだ。
時にね、自分がそうでなければ迷惑をかけずに済んだのかもしれない人も居たような…
っと考える節があります。でも、最近はそれは考えないようにしました。
 
逆に過去に迷惑をかけただけ今の自分にできることをしようと考えたんだ。
それがおよそ1年前にこのブログをenokiと立ち上げたきっかけではあったの。
 
僕は人生のまだ4分の1も生きていないのかな?
人生100年時代とか言われているものね。だから僕の文章が全てではなく偏りもあり、中には受け入れ難い文章もあると思うんです。それはだって、僕の考えは全て正しくないし、色々な考え方があって当然だと思うの。
 
でもここには直向きに文章を綴っています。
ある意味、僕と言う偏って見られてもいいし、それでも失敗談や経験談など
もしもそれを読んでヒントにしてもらえる人が読者様の中におられたらいいなと思うの
 
経験を無駄にしたくないと考えた時に思いついたのが、体験談の共有でした。
その一歩目がこのブログであり、自由にコメントもしていいし、飽くまで経験上からでしか相談にはのれないかもしれないけれどそう言う場所であるようにしてきました。
 
過去の辛い経験…
僕はそれをバネにして、自分の翼に変えて、どこまでも遠く、強く生きている。
 
今、辛い経験や孤独を感じている人がいるのならば
僕はできる限りその人の話を聴き、寄り添いたい。それが過去に迷惑をかけた人々への贖罪なのかもしれないけれど、でも前向きに考えたいな。経験を活かしたいの。
 
いっときは、仕事にもしようと考えたよ
でも、仕事だとどうしても潤な気持ちでブログを書けないと思うの。
お話も聴けないような気がした。だから自分の空き時間にこうしてブログにして共有しているんだ。
 
辛い思い、悲しい思い、孤独感、理解されない悔しさ
 
皆さんの声もどうか聴かせてくださいね。時間がかかってでも一つ一つご返信致します。
ただ、予め伝えたいアンサーは表題の通り「経験したあなたは強いよ」「経験しているあなたは強いよ」なぜ?
 
だって、そこに苦労していない人間よりあなたは人にきっと優しくもなれるし厳しくもなれると思うの。決して無駄じゃないんだよ。人の弱さを知ることはとても大事なの。だってその分優しい人間になれるっしょ?
 
きっと、今は悩んでいるかもしれない、辛いのだったら
その気持ち、忘れないであげて、あなたの一部だし、考え方なの。
いつしか、社会に出た時にきっと人として大切な一面をたくさん持てていると思うんだ。
 
学歴や会社で判断される時代じゃ、なくなってきている。
仕事をしながらそう感じるんだ。
 
求められるのは人間性
個性の豊かさ。
 
これからは個の時代なんだ。
サラリーマンなんてもう死語だよ。学校に行って良い大学に出れば将来安泰なんて時代はもう終わりかけているんだ。これからは各々の人間性や経験が評価される時代だ。
 
そうなった時に、今は苦しんでいても
 

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将来を考えたら明るいように思えませんか
孤独を経験したものは、真の意味で孤独を友にできる
虐められた経験は、人の痛みのわかる人間になれる
悲しさや悔しさを感じた人は、人の心に寄り添える人間になれる
 
素敵じゃない?
もちろん現在そうならば他人事に聞こえるかも知れない
でも、僕は今悔しさと悲しさと理解されないもどかしさを感じながら未だに生きているんだ。
 
具体的には次回のブログに綴ろうかな。長くなりそうだもん。
ブログの読者さんから、1記事につき文章が長すぎる!!て言われちゃった笑
 
だから今日はとりあえず、ここまで
いつも読んでくださる皆さまありがとうございます。
そして、悩みを抱えている人がいるのならば一緒に前へ歩いていきましょう。
 
髙橋直之

ひとりぼっちじゃないと言うけれど…

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孤独…寂しい…でも正直なあなたの心のサインだよ
こんにちは、たっきーです。
季節の変わり目は、温度変化がとても激しいですね。
先日、風邪をひきました。咳とくしゃみが止まらなくて、
マスクをしていても、街ゆく人は僕を避けて歩いていたように感じます。
 
風邪にしろコロナにしろ移されたら嫌ですものね。
 
僕は一人、その時は家族にも移したくないと部屋に篭り、病院以外は外出しませんでした。仕事はPCがあればなんとかなる。なんとかそこは繋ぎましたが、どことなく感じる孤独感に苛まれました。
 
ふと、その時に頭をよぎった言葉があるのです。
『孤独を友とせよ』
 
この言葉は頑張る時や、何か目標に挑むときに孤独というものはつきものです。
もちろん仕事やスポーツはチームでこなすものですが、個人の能力を高める為には人は自主トレしたり、一人で残業していたり、孤独は避けられないものです。
だから、強くなる為には、『孤独を友とせよ』という言葉が生まれたのだと思います。
 
でも、『孤独を友とせよ』という言葉には主語が隠れており
「”自ら”孤独を友とせよ」という事であると僕は捉えています。
つまり能動的に行う事。自らの選択肢の一つとして選ぶ手法であると僕は思うのです。
 
でも、孤独な状態に迫られている人もいます。
それが僕です。風邪を引いた、家族にうつせない、だから部屋に篭る選択肢を選ばざるを得ない。身体的な理由で孤独に晒される現実もあるのです。
 
今までのブログにも書いて来ましたが、私は自閉症スペクトラム症の中でもADHD、注意欠陥多動性の傾向が大きいと診断されました。
知るまでは、人間関係の構築に何度も苦労したことも、孤独を感じたことがあります。
 
先ほど、風邪を例に挙げましたが、精神的な部分は目に見えません。
そうした状況下にある人々は孤独感というものを一度は体験したことがあるのではないでしょうか。
 
僕は小学校と中学校と不登校で誰にも理解されず、親にも理解されず
ただひたすら自分の責任である。それは否定できないのだけれど、その当時はそれが故に孤独と寂しさに苛まれて生きた過去があります。孤独感から自殺願望すら抱いた時もありました。
 
「だって、こんな話誰も理解してくれないもん!」
「学校に行きたくない!勉強が苦手だ、でもそれが理由に行きたくないなんて!」
 
絶対に理解されないんだから
 
そう思って、独りぼっち部屋に籠もっていました。
先日、風邪を引いた時に過去の自分の体験を思い出しました。
 
悩みを話せず、理解されないとわかっていればいるほど、話しにくいもの
 
「ひとりぼっちじゃない」
そういう言葉をよく耳にした、本でも読んだし、歌の歌詞にもあった。
でも、僕は学生の時、孤独から抜け出せずに悩んだ過去があったんだ。
 
そもそも、誰に相談すればいいの?
みんな聴く耳を傾けてくれなかった…
「学校へ行くことは当たり前でしょ」それが子どもの役目
そう言われてしまうのがオチで、将来も悲観するようになっていた自分がいた。
 
そんな僕が手を出したのは行政が運営する、心の窓口だった
帰って来た言葉は、そうだ「あなたはひとりぼっちじゃないよ、安心して」
 
言うは易し、自分の境遇には全く触れてもらえなかった。
10年以上前の話だから今は対応が違うのかな?
 
でも僕は絶望した。、だって電話をかけるにも勇気が必要だった。
しかし返された言葉はその一言だった。
 
頭の中は真っ白で、世界にポツンと部屋に時間が止まったまま取り残されたような気がした。僕に将来はないのか、それならば一層、生きる意味などないのか。生きている価値はないのか。両親は毎日、僕のことで言い争い、熱りが冷めたと思ったら学校へ行けと言いに来る。「嫌だ」そう言いたいけれど言えない自分と、言いたい自分で夜は眠れずに葛藤していた。思い出せば、過去のこと…
 
でも、それを身に染みて体験して来た僕が言えること
 
”孤独はつらいよ”
 
ひとりぼっちじゃないと言うけれど、でもひとりぼっちになっちゃうんだもん。
マイノリティであればあるほど、日本は個人の考えを尊重する文化はまだ浸透していないんだもの。でも文化のせいなのか、そうしたら楽だけど解決には至らない。
 
だからこそ僕はこのブログを書いているの
もしも、今、孤独に、苛まれている人がいたら、
その人がこのブログを読んでいたらSOSを挙げて欲しいの。
 
大人になった今だから発信できる
それに、様々な対処法を僕は知っている。
 
対処法?
 
もう、自分の胸の内をぶちまける
それが一番いいの。理解されなくてもいい。でも自分の思いをぶちまけるだけで僕は心が少し楽になったんだ。両親の対応も少しずつ変わっていった…
 
もちろん勇気がいる
僕は恥ずかしながら泣きじゃくりながら両親にぶちまけた
これはただ事じゃないと察したのか、僕を落ち着かせなだめてくれた。
 
恥ずかしい、悔しい、自分が嫌い、でも、それが自分なんだもの
だから、ぶちまけたの、心のダムが崩壊しきっていたのもあるけれどね。
 
でも、その後に分かったの
”僕はひとりぼっちじゃない”
何故なら両親も悩んでいたことを僕は知ったんだ。
 
つまり、本音を話すことで繋がれる
仲間ができるんだ。
 
でも、本音を話すことは怖いし、社会人になればなおさら悩むの
 
でも、生きて
 
生きていれば、いつか仲間ができるから
一人じゃなくなるから。
 
将来?僕もわからない。
フリーランスで働いているけれど、そんなんで一生食べていけるなんて分からない。
こんな時代だけれど僕は思うことはただ一つ。
 
心のダムが崩壊してもいい、醜い自分でもいい
本音をぶつけることが孤独を抜けられる、一歩だと思うの。
恥ずかしいし、醜い自分かもしれない、でも受け入れてもらえたら楽っしょ!
 
僕はそう醜い姿も晒して、恥ずかしさも晒した、
でも、それでもそばにいてくれる人こそ本当の仲ではないのかな。
 
髙橋直之

障がい者としてではなく自分らしく生きる難しさ

こんにちは、たっきーです。
前回の投稿からいっきに夏から冬になっちゃいそうな勢いですね。
日本の四季はどこへ行ったのでしょうか。紅葉も一気に南下したと思いきや北海道では平地では初冠雪の予報で、気候変動が激しくなりましたね。とにかく寒い!!
って感じの筆者です。皆さまも、体調にご自愛くださいね。
 
今回のテーマは少々、重めのように響きますが飽くまで、僕の主観です。
 

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壁を感じずにはいられない日常、憂う訳でもないけれど…
あらかじめ話すべきことは行政の援助によって生活の基盤が成り立っていることです。
障がい者手帳を取得することで医療費や市民税など多くの控除を受けてきたことは認めます。それがなければ通院費も処方箋等で僕はとても苦しい生活を強いられていたことは確かで僕は行政の援助なくしては生計を立てることが難しかったです。
その財源は国民、読者の皆様による血税によって支えられていることは感謝し自分の生活と病状の治癒へ向けて支えられてきました。
 
しかし、少々、違和感を感じることがあるのです。
『僕のような障がい者が行政に支えられることにより生きていける』
この制度にはとても感謝してもしきれません。だってこうやってブログで記事に認めることができるのも通院によって処方があるからだと思います。そこは否定できません。。
 
しかしながら、最近、というか前から、どことなく上下関係を感じるのが僕の正直な気持です。こんなことを皆さまに言える身分ではありませんが、しかし「すみません」と謝る回数が増えたことは事実なんです。確かにお国から皆さまの税金を頂いて私は支えられています。
 
でも、障がい者だからと「謝る必要はあるのでしょうか」
僕以外にもコミュニティでたくさんの人意見を聴いてきました。補助を受けるにあたって「申し訳ない」そういう気持ちを持つ人が多いのです。
 
でも、開き直るようで『恐縮』ではありますが、僕らはなりたくて障がい者になった訳ではないんです。そして、行政の支援を受けないと生活に困窮する家庭も僕を含めてあるのが事実です。『恐縮』という言葉を使いましたが、日本人の特性でもあるのでしょうか?
奉仕されているが故にそうヘリ降る表現を使わざる世間に疑問を投げたいんです。
 
確かに私たちは皆さまに支えられています。でも、障がい者になりたくってなった訳ではない、どうしようもない気持ちを抱えながら生きている人が僕も含めて多数いることが分かりました。確かに開き直るのもどうなのか?でも社会福祉的な観点から考えると皆、平等であるべきではないでしょうか?
 
障がい者でも、現在ではお国でも白羽の矢が立ち、就労可能人口に加算すると、日本の30%増やせるのではないかという数値が出ています。確かに訓練や職場に定着する為に支援を必要とするのは事実です。でも、もしも、皆が就労可能となれば日本という国、少子高齢化社会を乗り切るための一作でもあるということを、ご認識いただけたらと思うんです。今後の令和の社会ではコロナ等、未曾有の状態にある社会です。
 
でも、どうか僕と同じように就労可能人口に、日本という国家を存続する為にも必要な投資であることをご理解願いたいのです。
障がい者採用だから」
「健康面で不安があるから」
「思考に傾きがあるから」
でも、それがどうしたことでしょうか。適材適所という言葉があります。
それぞれの障がいや特性に合わせて社会進出を、自然と受け入れて頂ける世の中になってくれることを願います。もちろん、今でも十分すぎるほど、社会復帰への精度や補助制度が充実していることを僕は自負しております。
 
しかしながら、会社という組織や行政に掛け合うときにはどうしても障がい者としての区分により可能性を失いかねないような手続きが存在することも事実です。
特に精神的な障がいにおいてはより厳しいチェックがなされます。例えば車の免許の保持に関しても半年に一回主治医の診断書を警察署に提出しなければならないのです。
交通安全の観点からしてみれば、そうせざるを得ない事情は理解できますが、診断書を書いてもらうのにも費用がかかりますし、体調管理には一層気遣わなければなりません。だって主治医の判断によっては免停になるかもしれませんから…
そうしたら私は、心臓にペースメーカーを入れている親を病院に送り向かいができなくなってしまう可能性もあるのです。(いかにストレスであるか…)
 
それぞれ、障がい者と呼ばれる皆んなが世間で同じ目で見られる日をどこかで願っているのです。「謝る回数が増えた」先ほど『恐縮』という表現を用いましたが、それが当たり前な世の中では障害者の立場も、将来的には日本の就労可能人口を減らし、若者への負担が増え続ける一方であると僕は考えるんです。
 
少々、話が広がり過ぎましたが、ここで伝えたいこと
障がい者であっても社会に参画できる機会があり、平等であることを伝えたいのです。
 
確かに症状によっては限界があるかもしれません。
でも、色々な特性の人間がいる、多様性が認められていく社会であって欲しいのです。
 
ある日、僕はバスに乗っていました。
車椅子の乗客が乗降する際に舌打ちをする乗客がいました。
きっとその人は急いでいたのか、何かしらの事情があったのでしょうが
しかし、その車椅子に乗客は「すみません」と謝りながら乗降しておりました。
僕は、どこか違和感を感じずにはいられませんでした。
 
皆さまは、どう思われますか。
僕はその人、その一瞬に立ち会っただけで日本の社会全てとは言いません。
しかし、巷では車椅子の乗客がタクシーに乗車を拒否されるといったニュースも存在します。考え方は人それぞれではありますが、この違和感を…
 
表現に苦しみますが共有したくてこの度ブログを更新しました。
読者の皆さまはどう受け止められる日でしょうか。
奇譚のないご意見を頂戴できたら幸いですが、考えるきっかけになればとここに記事を認めます。
 
髙橋直之

人はすれ違う、されど関係を築く道のりである

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人間は一匹狼にはなれないよ…なろうとしても寂しくないかな?


こんにちは、たっきーです。

急に秋の陽気になりましたね。横浜市でもエアコン点けなくても涼しい。
寒さも暑さも彼岸までと言いますが、本当に今年はその通りですね。
 
急な温度差に耐えられない人はニンニク料理がオススメですよ。
4連休ですから(僕はそうではありませんが)口臭なんか気にせずニンニクやニラで耐性を付けて季節の変わり目を乗り越えましょう。
 
さて、今回のテーマは人間関係について筆を進めたいと思います。
皆さん、人付き合いは得意ですか?
 
先日、営業職を務める友人と会話してきました。
関係を築くには「意見のすれ違いや期待、またそれにかなう結果を得られず裏切られたという感覚は当然のようにある」とのこと。
 
先日、俳優の芦田愛菜さんが映画の記者会見で話していましたね。
「人の一面とは様々で、己の期待から外れた側面を見てしまった瞬間に、裏切られたと感じる。でも、『信じる心』とは、そうした側面も理解し努力しようとするものをいうものだ」(高橋の要約)
高校生にしては深い哲学的な発言です。感嘆しました。
 
でも、日頃、僕たちが暮らす中で人に傷付けられる瞬間てありませんか?
発言者は意図していなくても、受け取り者は誤解してしまうような認識齟齬や、裏切られたと感じる絶望感。「こんなヤツと一緒にやっていけるか!!」
そう思う瞬間て少なからず人間と付き合っているとどうしても起こり得るすれ違い。
 
僕もそうでした。親友と言える友達に裏切られたような感覚に苛まれる瞬間が今に至るまで何度もありました。もう話すものか!!と憤りを隠せない瞬間もありました。
僕も27歳にして良い歳なのにまだまだ子供な側面もありますね。
 
でもさ、”そんなヤツ”でも一緒にやって行かなければならない瞬間もあるんです。
上司も、同級生も選べませんからね。同じチームやクラスになってしまった以上は、付き合って行かなければいけないのが現実です。大人の対応ができる人ならば顔にも出さずに苦手な人とも人付き合いはできるでしょう。
 
でも、そうした人々には共通点があるように最近感じるのです。
それは「人に期待を持ちすぎないこと」
 
僕はよく怖い人間だとよく言われます。
人間としての心がないとか、情が無いだとか…
でも、それはそれでいいです。読者様が垣間見れる僕の冷たさや怖さとは
 
「初対面の人間に対して信用している、と言った感情を抱かない」
ことでしょうか。
だってそうでしょう?初対面で、その人の何も知らないのに何を信用しろというのだろうか。決して口には出さないけれど、必要な場面では出します。相手があまりにも自分の領域に迫ってきたり、ラインを(一線をかくしたい)時ですかね。
 
学生の頃は、そうした考えを全くと言っていいほど持っていませんでした。
良い意味でも、悪い意味でも
しかし、あまりにもそうした側面を持ちるぎると人は近づかないものです。
「寂しい人間だな」本当にその通りです。でもそれは僕自身を守る術だと社会に出てから知ったのです。あまりに心を開き過ぎてしまうと相手に弱身をすくわれてしまったり、自分の意図や個性まで誤解されてしまいかねないこともあるんだと気が付いた。
 
ある程度の距離感と、『個』としての自分が保たれる空間が必要なんだ。
これに関しては賛否両論でしょう。
 
でも、人の側面とは本当に時間の問題でもあるし、話術さえあれば相手の考え方を知ることだって時間がかからないこともあるんです。
特にフリーランスになってからは、営業一本勝負!!
1時間くださるお客様や15分で説明してくれという人もいます。
 
その中でいかに自分をPRし信用を勝ち取るか
経験上ですが相手の意見にばかり飲まれては、相手のペースです。
空気を読むのは大事だけど、その空気って誰が作るの?
 
自分で作れたら最強じゃない?
そう空気(話の場)は完全に僕は自分の土俵に引き込みます。
「聴いてもらう」ためには強引な方法ですが、まず第一に行う行動です。
次に相手の意見に耳を傾けることは言わずもがな対応スキルですが指摘する力も大事。
間違っていることは間違っていると契約前の商談の場でも僕は言っちゃいますね。
 
今のご時世だとYesマンは敬遠されてしまうんだ。
何で?営業トークが表に出過ぎてしまうからじゃないかな?(推測だけど
 
だから、変えてみたの自分のスタンスを持って50/50の立場で会話したらリスキーではあるけれど、契約後に後々になって人間関係や認識齟齬などの人的なトリガーで仕事をしにくくなることが圧倒的に減ったんだ。寧ろ、お客さんと飲みにいく機会が増えて、僕に対して興味を抱いてくれているのかな?とまで感じます。
 
さて表題に戻ります。
ここでお伝えしたいことは、人間の価値観は十人十色はご存知の通り…
でも、ビジネスや友人関係でもちょっとした課題や難点を抱えていたりしませんか?
訳ありとまでは言いませんが、単刀直入に「馬が合わないなぁ」とか。
だって、仕方ないじゃないですか、人間だもの。
 
じゃあどうすればいいの?
考えた結果、その答えも表題に載せました。
すれ違いは関係構築における通過点で致し方のないことである。
 
仕方ないんだもの。一人一人考え方が違うんだから、それに対して全てに目くじらを立てていたら心が先ず保たないんだよね。だから諦めたの。
 
ちょっとずつ、対面する人に対しては人間性を知って行こうと
時間はかかるかもしれないし、時間のない時は話術で相手の引出しをドンドン開けていく。もちろん自分も開かないと相手も心の扉閉めちゃいますからね。
 
だから、
一回くらいのケンカや
初めて感じた裏切られて傷ついた感情
 
その勢いで人を判断しないようにできたら、社交性がもっともっと広がるかもしれませんね。自分の視野を広げることは自身でもできますが、人から学ばせて頂いたことが僕はたくさんあったように感じます。
 
繋がり、大事にして行きましょう
そして、協力の輪、広げて行きましょう。
 
僕なんかよりもブログでは為になる言葉を発信している人がいます。
このブログのテーマは主に障害者の人権保護、差別(いじめも含む)特に若年層で学校や社会に馴染めないと悩んでいる方に、たまたま読まれて安心して頂ける場所であればいいなと思い更新を続けています。(自論多めですが…)
 
苦境であるこのご時世、人との繋がりはやっぱり大事だよ。
助け合って生きているんだなぁ、と実感する。
 
そう、助けて欲しい時は、助けを求める勇気も必要だよね。
でもそれって案外勇気いる行動なんだよね。
 
とりあえず、ひとりぼっちにならないでね。
味方は、あなたの見方によって敵のように思えたあの人が実は
予想以上に力になってくれることだってあるかもしれませんよ。
 
髙橋直之

世間は甘くないというけれど、味方になってくれる人や居場所はちゃんとある。

高校生の頃、面白いことを授業中に話していた先生がいました。
「チャンスの神様には前髪しか生えていないんだよ」と
 
えっ、前髪だけ…って
余談ですがその先生は円形の輪郭はしっかり生えていました。(先生すみません)
 

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ギリシア神話に登場する神様 カイロス 前髪しかないのは本当だった…
つまりね、後ろ髪を掴まれるという言葉はよくありますよね。
チャンスの神様は後ろ髪がないので、現れたその瞬間に前髪を掴まないと逃げてしまうと言うのです。いきなり何の話をしているんだい?高橋くん…
でも実際にギリシア神話に登場するチャンスの神様は確かに前髪しかなかったそうです。という事実…https://ja.wikipedia.org/wiki/カイロス
 
皆さんも好機が来たと思ったら、即決して掴んで見るのもありですよ!!
 
と、いうのは長い前置きになりました。
このブログの管理者の一人であるたっきーでーす。
 
今回はスランプから再スタートを切るために。
確かに世間は厳しいというけれども、障がいのみならず、うつ病などの病に苦しむ人向けに「チャンスはいつでもあるのだ」という記事を書こうと思いました。
きっかけは先日、就労支援の仕事をしている仲間と話しをする機会があったのです。
 
『就労支援』てなぁに?
そう思われる方も多いかもしれません。
事実、その人曰く、国からの支援で受けられるサービスの一つとして就労支援事業の周知率はとても低いそうなんです。
 
簡潔にご説明すると…
ある疾患や心身に障がいを抱える人々に対して自治体にもよりますが、所得状況に応じて90%の方が無料で再就職に向けて相談やスキル習得の支援を受けられる事業所がある。
気になった方は就労支援で検索してみてくださいね。
 
僕は4回以上の転職と、失敗、挫折で何度も転んでは立ち上がってを繰り返してきました。僕の抱える精神障害の合併症で抑うつ症状に見舞われる時期もあり、その度に暗闇を彷徨うような孤独と不安に苛まれる時期もありました。
 
現在は自分でコントロールできるようになってきたとは言え、未だに気の抜けない状況ではありますし、自己管理も徹底しています。私も就労支援事業に通おうとしたのですが、タイミングが合わなかったりしたんですね。そもそもそうした情報を取得して積極的に社会に復帰を試みる段階にあれば良かったのですが僕の場合は、気持ちの浮き沈みの波が突発的におこるようで、どうしても合わなかったんです。
チャンスの神様が訪れて、行ける!!ってなったら即行動に起こして結果につなげるタイプ。
 
なので就労移行支援事業が障がいや病で悩みを抱えている全ての人に効くとは限らないのも事実としてあるようですね。
 
でも、興味を持ったり、ちょっとでも復職してみたいな
なんて考え始めている段階の方にはとてもお勧めしたい国からの支援策です。
疑問なのはハローワークでは紹介されないんですよね…職業訓練は紹介されるんだけど…
 
やはりここにも、行政的な課題が見え隠れするのでしょうか。
でも労働をすることが人生の全てではないですし、苦しんでいる最中に求職活動をする必要もありません。でも、生活を保つためにはお金が必要で、それを得るためには行動しないといけないのですが、抑うつ症状に悩む人々には手続きが負担にもなります。
 
そんな時は、県でも心の相談窓口などがあったりします。
僕の場合は神奈川県なので、そこのリンクを共有しますね。
 
その他の自治体でも多くの相談窓口を設けています。
先ずは抱え込まないでください。あなたの味方になってくれる人はたくさんいます。
そして段階に応じて、多くの支援策が行政によって行われているのです。
 
何故、ここまで国や自治体が支援事業を展開しているのか?
それは、少子高齢化による就業可能人口の減少です。そして、障がいや病を理由に終業不可とされる人口が増加傾向に、ここ数年あります。
 
国としても各自治体においても就労可能人口の増加を図る施策は重要な事業として近年では位置付けられているのです。それだけ支援は手厚いです。(受けられれば)
 
そう、受けられるまでに、この事業で欠落している課題を指摘すると
支援を必要とする人々、若しくは必要としていても窓口が多すぎてどこに相談していいのか分からなくなってしまう。仕組みが複雑だったり、手続きに時間がかかるなどで多くの課題が山積しているのです。
 
でも、国や各自治体が動き始めているのは事実で
更に民間の事業者も存在したりします。
 
悩む前に、苦しむ前に、実は現代社会においては味方になってくれる場所がいくらでもあるよと伝えたいのです。ご家族の方も心配でしたらぜひ、こうした支援機関を活用されてみてはいかがでしょうか。
 
僕みたいな素人が、経験談をブログや講演会などの草の根的な活動をするのも
こうした支援事業を知らずに涙を飲む人々が多く、自分もその一人であったからです。
 
筆者として述べるのもナンですが、こうした公的支援を受けることの方がよっぽど効果的であり自分らしい人生を探せる良い場所ではないでしょうか。
 
諦めないでくださいね。
支えが必要ならば支援を受けることは後ろめたいことでも何でもないのです。
恥ずかしがらないでください、秘密は守られるし、サポートの体制も整いつつあります。
 
町単位では周囲の目が気になるのであれば、県単位で窓口を検索してみてください。
または、民間の事業所を探してみてください。
 
もちろん、そうした元気がなければ養生も大事ですよ。
世の中は甘くないというけれど、そこまで斜に構える必要はありません。
自分の心と相談しながら、こうした支援期間をぜひ活用してください。
 
ぜひこのブログへのコメントやメッセージでもご対応いたします。
あなたは一人じゃないよ。そう思える社会が今、構成されつつあります。
 
髙橋直之