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不登校経験を経て社会人となったやつらの発信活動

障害はどこにあるの?

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全てのマークを意味を知っていますか?
おはようございます。こんにちは。こんばんは。はじめまして。
今日もこのブログを読んでいただきありがとうございます。
 
今日ね…忘れ物してしまったんよ。やらかしたぁぁぁぁ
財布、、でも今の情報化社会、スマホがあればなんとかなるっしょ?
そう思ったんやけど、まさかの電池切れで改札シャットアウト。反応なし……
 
帰れねぇぇぇぇぇぇ!!!!!
と言う瞬間に、隣に居てくれたのは一緒に研修を受けている優しき友のおかげでなんとか帰宅することができました。あるんだよねぇ、こういうこと。
今日はたまたま持ち物が多い日で(介護初任者研修を受けています)細かな持ち物があったんだけど、授業に必要なものは完璧だった。ただいつもの必需品が欠けていた。
笑って許してくれる関係を築けているから、同期に感謝と自分によっしゃ!!て日でした。
 
そんな感じで、今日も帰ってきましたが久々に貴重な経験をしたの
 
切符を買うこと
 
いやぁ、最近ねスマホで「ピッ」だもん
自分の最寄駅を駅の切符売り場に記載された路線図を辿りながら自分の最寄駅を探す
いや、待て、ここは東京メトロの改札、実家は横浜…
載ってないよね、久々の機会操作に戸惑う僕、「えっ…と、乗り継ぎだから、横浜乗換えで、更にJRで……」長い、切符を買うのに時間がかかるの!!!
 
いつもならスマホで「ピッ」が使えないがだけにとても時間がかかるの
皆さんもみどりの窓口に並んだ経験はありませんか?
 
ICTが進む社会ですが、みどりの窓口に並ばなきゃいけない瞬間てありませんか?
切符の突然の変更、通学定期券の購入、障害者割引の適応
 
みどりの窓口も今はすごい並ぶのね
ICカードの普及が進んでいるからなのか、窓口のスタッフが少ないの。
20分並ぶことも珍しくはないと思う。何度かね、経験した、ドギマギしながら
時間や余裕がない時に限って頼りにする窓口。やっぱり自動化は進んでも人によるサービスの提供は必須だと感じずにはいられません。
 
今は何でも自動化でしょう…
でもさ、久々に切符売り場に並んで思ったのよ
ご老人が多数。路線図に書かれた小さな文字で書かれた行き先表示を見ながら確認する姿
ICカードしか使えない改札がために迂回を余儀なくされる僕
 
普段は便利だなぁと感じるけれど、ツール(ICカード)を忘れた瞬間、すっごく不便になる。まぁ忘れてしまった自分がいけないのだけれど、でもアナログで育った世代の方には不便さを感じさせずにはいられないのではないだろうか。
ICカードだって認識して使いこなせる人も全員が全員かというとそうでもない
ポイント制度とかあるし、複雑な登録やインターネットを用いた会員制度は見方を変えたら考えものだなと思った今日であった。
 
ここから本題に入るけれど障がいはどこにあるの?という問いです。
医学モデル(本人の障害)で考えると障がいを抱える人々にとっては切符を買う、みどりの窓口に並ぶ、そうした選択肢を選ぶことは必然であるけれど近年ちょっと盲点になっていませんか?
社会モデル(社会の障害)で考えるとバリアフリー化が近年進みエレベーターやエスカレーターの設置や、誤ってホームからの転落防止のためにホームドアの設備も大分普及してきたし配慮はされていると思うんだけど……っねICカードを忘れてしまった日を考えてみてください。切符売り場少なくなっていませんか?切符に対応した改札機も少なくなっていませんか?細かく言うと料金も微妙にICカードより高いしね。なんか不便だし不平等。
 
僕の考えすぎでしょうか?
まぁ今までは電車のケースで考えてきたんだけれど、他の場面でもありませんか?
 
例えばマイナンバーカードとか
これからキャッシュレス決済で最大5000円の還元が国からあるとか
祖母が聞いてきたんだ「きゃっしゅれす」て何?
 
そうだよねぇぇぇぇぇぇ
説明する僕も頭の中で少ないボキャブラリーを引き出して伝えたけれど認知症の祖母には理解ができないのが実情です。
 
世の中、平等て確かに難しいと思うの
それと共に時代の流れというものはあって電子メールからSNSにコミュニケーションツールが変わっていったように近年では社会的技術革新が進んでいる。僕からしてみたらとても便利だと思う!!でも、スマホ失くしてみたらどうよ?
 
電車にも乗れない、下手したらクレジットカードだって使えない、もちろん助けを求めるコミュニケーションも不可。便利も考えものですね。効率化や利便性を考えて情報化が著しく進む現代において取り残されてしまっている人々もいると思うんだよね。
 
便利は便利、でも便利さが故にそれが社会に障害を作っていることも事実
切符を買おうとする祖母がみどりの窓口に長時間並ぶことは当たり前として考えていいのでしょうか。僕には耐え難いなぁ。ヤキモキしちゃうもん。(ICカードを忘れた自分が悪いんだけど)
 
ここで考えて欲しいんだよね。
利便性が向上することは僕も否定はしないんだ。寧ろ歓迎です。
だがしかし!、その波に世間の全員が乗れているの?は考えなきゃいけないんだ。
全盲の人の立場からしてみたらどう?車椅子の人から考えたらどう?
 
僕はそこを考えずには居られない貴重な体験を一日過ごした(ICカードがないだけで)
 
医学モデル(本人の障害)はどうにもこうにも私たちには変えようがない
でもその医学モデルと社会モデル(社会が作る障害)を分け隔てている根源には私たちの当たり前(ICカードを持っている、階段を登れる、そもそも仕組みを理解できる)が障害を生み出しているのではないかと考えるんだ。
 
人間関係でも同じさ
「人として当たり前でしょ」「できて普通でしょ」
その概念があるから、そこに当てはまらない人を障害者として区分してしまっているのではないでしょうか。もちろん障害者には必要な支援や、配慮があることは事実です。
 
でも
私たちの当たり前
私たちの認知スピード
 
それによって遅れをとっている人々を障害者として括る考え方は僕は賛同できないんだ。
 
ここで伝えたいことはね、敢えて不便な体験を皆さんにもして欲しい
スマホを1日使えなかったら?
ICカードを忘れてしまったら?
 
さてあなたはどうしますか?
日常動作でいいんです。でもそれができない人々や理解に追いつかない人々がいるんです。その場合、日本社会は、その人々をどう評価しているのでしょうか?
 
結論?というか、僕の考え方だけれど
「当たり前」「普通」て言葉あんまり好きじゃないんです。
 
ここまで日常動作のお話をしてみたけれど、ちょっと変わった思考の持ち主や
個性のある人のことを「普通ではない」と思ったりしませんか?
 
一瞬でも思ってしまった瞬間、それは区別ではなく『差別』になると思うんです。
日常動作ができないから、考え方が個性的だから、それは私たちの「普通」という鷹見櫓から見下ろしてしまっている思考ではないかと思うんです。
 
ここでもう一度、訪ねます。
 
「障害はどこにありますか?誰にありますか?」
 
医学モデル(個人の障害)は自身が受け止めるしかない…
本当にそうかな?僕ら、私たちも受け止めていかなきゃいけないんじゃないかな?
物理的(ハード)な障害は解決するには時間がかかるでしょう。でも心理的に障害をなくしていくことは私たちの心の持ちようで変わっていくものはないでしょうか。
 
財布を忘れ、スマホの電池切れ、立ちすくんでいるどうしようもない自分に
「次、会う時に忘れないでね」と優しく、笑顔で電車賃を貸してくれたその人には僕は障がい者として映っていなかったのではないだろうか。
 
髙橋直之