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不登校経験を経て社会人となったやつらの発信活動

社会的信用がなんだ!これからは個々の自信と信頼が命だ

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何で?平等な権利、自由が与えられるべきではないの?
悲痛な心からの叫びです。「社会的信用がなんだ!」
最近そのように感じる。フリーランスとして活動を始めて幾数月。
サラリーマン時代は色々なものに守られていた。会社という箱はとてもすごい。
厚生年金、健康保険、毎月安定した給与、ルーチンワークで稼げる。
 
入ってしまえば楽だ、入るまでが大変な日本の大学のように…
 
少しトゲがある発言が目立つ序文ですね。
でも今回のテーマはそれだけ自分の気持ちが一定の袋の大きさの中に貯まり(僕の場合999Lぐらいの袋かな)それが今にも破裂しそうなのです。
 
それは社会に向けるだけの牙だけではありません、自分が日本という恵まれた国の中で上手く暮らせて行けない不甲斐なさも感じるのです。これは強がりでね、社会の責任にしたら負のような気がするんです。だって僕の生きる今は今だから…
これが10年先、20年先、社会の評価指数や評価対象は変わっているかもしれない。
でもそれを否定してばかりいては現代を、今も生き抜くことができないのが僕です。
 
僕はブログで発信し続けるけれど、社会では弱者として扱われます。
障害が理由に生活は保証されています。血税の一部をいただきながら生活の一部(主に医療費について)支えられているのは事実です。
 
それに対して僕は文句も何もありません。
日本はまだ国による保険整備が充実しているように今は感じるからです。
それでなんとか生活していけるのは紛れもない事実であり、それ故に社会的弱者として位置付けられます。障がい者として生きているのです。
 
でも、障がい者として生きるには社会的保険制度を受ける傍らで、制限を受けているのも事実なんです。例えば起業です。個人事業主として特定の資格を有し免許を申請するためにはどうしても障がい者である以上、受けられない免許もあるのです。
 
例えば宅建、弁護士、行政書士といった国家資格です。
 
当然といえば当然ですが判断能力に欠ける人がつけない職種ではあります。
開業して免許を得ないと事務所を設けられないのは当然?当然なのか…
身体障害者で下肢不自由の人が判断能力に欠けるのか、ASD(自閉症スペクトラム)の人々でも社会的に独立して事務所を設けることはできないのか…
 
疑問である…
 
社会は、人は、何かしらの判断基準を持っている。
社会は法律、人は自我である。
もちろんそれぞれ判断基準は必要であるし、それが人である以上、その人の判断基準は自由であると思う。ただし…
自由であるからこそ、社会の判断基準である法律は、ある程度ユニバーサルでないといけないのではないのか。人々の判断基準となる指標でないと行けないのではないのか?
 
僕はそう思うのです。
フリーランスで仕事をしていく中で自分が障がい者であることを社会的制度から改めて思い知らされ、自分の可能性、将来性を制限されると感じる瞬間があるのです。僕が精神障害者保険福祉手帳を有することで活動を制限される事実があるのです。
 
例えばある、国家資格を有していても、判断能力に欠けるとして免許が得られない。
結果として事業を始められない、という現実があるんです。
当然といえば当然か…でも僕はとても悔しいんだっ!だって資格を得るということは客観的に見て能力を有していることを第三者機関に認められていることなんだよ?
例え、それが国家資格なら国が認めている。でもその資格を有していても、事業化するためには免許が必要なんだ。その免許の取得資格にどうしても僕の障害が邪魔をする。まさに『障害』だ。
 
もっとわかりやすく言うと僕には婚約者がいる。とても幸せだ。
でも、その婚約者のご両親は言った「メンタル関係の病院に通っていたら…」
確かに僕は精神科にお世話になっているADHDうつ病だ。
 
でもそれがどうした!!
精神科に通っているからといって社会的信用まで下げられたくない、偏見も持たれる筋合いはない。だってADHDは僕が生まれ持った特性であるし、うつ病はそうした病気を持っていても、併発してしまった精神病なんだ。
成りたくてなった訳ではないし、精神的弱さから、なった訳ではないと僕は考えているんだ。
 
だって「僕は僕で私は私なんだ」前回のブログで書かせて頂きました。
 
それは個性であり、持って生まれた特性なんだ。それを否定されてしまっては元も子もないないよ。でも確かに、社会的にみたら精神科に通うとう言うことは不都合が伴うのは事実。
例えば、住宅ローンを組む際には団体生命保険に入りにくいし、医療保険も保険料が高い緩和型のものしか入れないんだ。保険会社は営利会社だ。そうした仕組みは仕方ないしリスクのある障害者は加入が難しい。事実だ。何もいえない…だから説明が求められるのは当然だ。
 
じゃあ、どうすれば社会的に障がい者でも信用を得られていくのか。
僕は僕なりに考えてみました。
 
やっぱり、僕は個々の自信と信頼が大切なんだ!と思う。個人の意識、意志だ!!
社会的指標がなんだ。血税にお世話になっていることは否定できないけれど、それでも自立しようと自分なりに努力しているのに、障がい者であるが故に壁があるのは何故なんだ。
 
疑問を捨てきれないでいる。
 
どんなに変わっていても、どんなに個性的でも、どんな障がいを持っていても社会的権利や評価は平等であって欲しいと思うんだ。その個々の指標としてなり得る法律に障がいの壁を作ってはいけないのではないのか?それが僕の今回の持論であり、ブログのメッセージです。障がい者であっても本当に生きやすい世の中とは何か、ぜひ考えて欲しい課題です。
 
僕はね、日本の法律を否定したい訳じゃないんだ。
でも、それが根っことなって人々の評価指数になっているのは事実だと思うの。
だから、個々の信頼と自信とは障がい者だけが持つべきではなくて、この文章を読んでいる皆さんにも考えて欲しいんです。確かに障がいの度合いによっては難しい免許もあるでしょう。でも、全てが本当に難しいのか?僕は疑問ですね。
 
障がい者の『害』は社会が作っているんじゃないですか。
だって僕と接することに『害』を感じますか?この文章を読んで『害』を感じたならば申し訳ありません。でもそれでは、何故『害』を感じるのか教えて頂きたいです。コメントでも何でもいいです。忌憚の無い意見をお待ちしております。
 
さて今回はとても感情論が挟まっていますが脱サラしてもやっぱり壁はあるものですね。
それでも、僕は家族を守っていくために頑張ります。
 
絶対に負けません。そして自分の病気にもしっかり向き合います。
それが障がい者に対して保証はありながらも、希望は少ないと感じる僕の生の訴えなんです。
 
髙橋直之