頑張りやさんこそ、気づいてほしいこと
こんにちは、たっきーです。
最近、投稿の頻度が多いのは、おかげ様で問い合わせ相談が増えているのもありますが、共通して梅雨の時期は心身の乱れが確認が多くみられる季節であるからでもあります。自分自身もここ2年間は仕事と通院の両立で大変だった時があります。しばらく外出できない日々が続いたこともありました。それでも今は自分なりにペースを整えつつ一歩一歩回復へ向けて良い兆しです。
何故、そんな自分がメール相談などを継続しているかというと経験による事実しか話せないですし、僕は医師ではないので医学的な見解は話せません。しかし、自分の失敗談や経験からヒントを見つけて前向きになれた「ありがとう」等の言葉は自分にとって誰かの役に立てていると実感できたからです(自己満足なのかもしれませんね)
逆に言うと読者の方々がブログを読んでくださったり、お悩み相談等してくださるから継続できているのかもしれません。持ちつ持たれつとはこういうことですね。
今回の記事ではどうしたら自分自身で(一人の力)でモチベーション維持や気持ち的に上下の無いように過ごせるかをテーマに書いています。しかし、この時点で既に僕なりの答えを出しています。【持ちつ持たれつ】がキーワードです。
先ずこの記事の根底を覆してしまうことを申し上げると一人でなんとかするのは厳しいですし、余計にストレスを抱え込みやすくなります。一人の力でなんとかしようとするのは辞めましょう。もし前回の記事から今回の記事を期待していた方がいらっしゃったらごめんなさい。でもそんな読者の方はだれよりも頑張り屋さんなのでしょう。でもその頑張っている、または頑張らざるを得ない環境にある方へメッセージです。
家族や友人に自分の弱みを見せるのが苦手か、プライドの高い気質なのかもしれません。僕も実際はそうです。未だにこれを直しきれず通院しているのですから。でも頼るところは頼った方が良いですよ。例えば行政支援や民間団体の支援など近年、精神的に何かしら課題を抱えている方が多く政府も、僕を含めて民間団体も黙ってはいません。
知られたくないならば知られないように先ずは、お住いの地域の区役所等(行政)に相談センターがあります。そうした場所を先ずは利用してみるのはいかがでしょうか。秘密は守られますし、相談時間も平日21時まで等非常に長い時間受付している例も少なくはありません。私のような民間はメール相談等は24時間。もちろん返信までに現在は2~3日間ほど時間を頂いておりますが、早い民間団体は本当に早いです。
第二のステップは自分の抱える問題を相談しても良いという友人が居たら最高ですね。だって何よりあなた自身を少しでも知っている人物に相談した方がより親身に機械的な返事はされないでしょう。ここで言えるのは相談される側もそんなに悪い気持にはならないという事です。僕がブログを続けているのは相談を頂けるだけニーズもあり、逆に自分自身の社会参加できると感じられているからです。相談を受ける側が迷惑かどうか感じることよりも相談相手のスケジュールを聞いてから相談してみることは、頑張り屋さんの皆さんには誰かに相談する近道ではないでしょうか。
第三のステップは家族や親しい友人に話せること
行政や民間の相談者以上にあなたのことをより理解しようとしてくれるし、他人事にとらえられる心配もありません。でもこのステージがなかなか難しい。だから民間や行政が相談窓口を作っているのでしょう。しかしここには欠点もあって悩みによっては話しにくい事柄も多くあると思います。知らない人に自分のプライベートな事情を話すなんてと僕も最初はそのように考えていました。でも一人でもんもんとして外出もせず部屋に居るよりかは社会とのつながりを少しでも感じられる瞬間でもあり、きっかけでもありました。なので、一人でどうするか頭を抱えて立ち止まるよりも社会との繋がりを感じられるようなきっかけとなる場所を、人を頼りましょう。
頼られる人って意外と、人に対して頼りっきりの人が多いですよ。
多より上手は、頼られる人になるヒントなのかもしれませんね。
2023/6/30
髙橋直之
記憶より未来の思い出つくろう
こんにちは、たっきーです。
連日暑いですね、6月末ですが梅雨の真っただ中です。精神的にも身体的にも体調を崩しやすい季節と云われています。でも、精神を制する者は健康を制する。気持ちの面から少しでも元気になれる記事を書こうと今回、執筆しています。
皆さん、過去の失敗談はおもいだせますか?
でも過去の成功体験を思い出す方が絶対に時間がかかると思います。
何故でしょうか?
幾説ありあすが人間には、常に自分の評価に対して敏感であり、自己保身の気持ちから過去の過ちの方が強く記憶され、同じ過ちを繰り返さないように記憶が整理されていく説があります。人間は深層心理の中で自分を方法を常に脳内で計算しています。実はこの原理に近いのが昨今話題になっているAIと同じアルゴリズムなんです。
しかし、人間とAIの間では大きな違いがあります。
それは常に確率論やアルゴリズムではなく、人間には常に自由に選択できる意志(選択権)があることです。例えば過去1年間で逆上がりを練習し失敗したとしましょう。AIの場合成功の確率、失敗の回数により次の1年間の練習は無駄と判定を出します。(ここには動体力学等の専門的な期待値はなしとします。)
人間の場合はどうでしょうか。確かに一年間練習しても失敗したら逆上がりは出来ないかもしれない、若しくは「自分は鉄棒に向いていないんだ」という心理で都合の良いように解釈して諦めるか、費用対効果的に無駄であると結論付けるかもしれません。
AIと人間の大きな差は結論づけるまでに経験則が含まれているかいないかです。
AIは過去の履歴から未来を予測します。経験則上では失敗が続けば続くほどにAIは成功確率を下げていくでしょう。人間も自分に対する自信を失くしていくでしょう。しかし、AIは経験則上の期待値をはじき出すだけで、人間の場合自信を失くしたとしてもモチベーションという別の値が存在します。
今回お伝えしたいことは如何にしてモチベーションを維持するかについてです。
例えば仕事で上手くいかなくて上司に叱られている日々があったとします。学校でテストの点数が伸びずに「受験する気があるのか」と親から叱られたとします。
読者のあなたはどうやって自分のモチベーションを下げないように行動又は心理的に回避しますか。僕の場合は言い訳をします。「今期の顧客のニーズと今の会社の方針があわないからだよ!(# ゚Д゚)」とか、テストで出題された問題が自分が自習した範囲外だったよ(# ゚Д゚)」のように自分の心の中で言い訳をして、相手には口頭で言い訳をせず次回から善処します(# ゚Д゚)みたいに流しています。
言い訳は悪いことではないです。どんどんしてください。でも、相手に悟られないようにすることポイントです。相手に口頭で発言したら相手方の思うつぼだったり、あえて相手の怒りを増幅せざるを得ません。そうなったら対応は非常に面倒臭いですし、自分への罵りも加速することは必須です。
相手が言う結果は結果です。自分の評価はそのまま受け止めましょう。
ただ、それを失敗談として片づけてしまったり。自分の能力はこんなものかと認識してしまうことが大いに自分の将来を左右してします負の思考に繋がるかもしれません。
僕の経験談を踏まえると相手の評価=自身の評価のようにしてきたからうつ病等、心身の健康を乱す結果になったのではないかと今だから振り返ることが出来ます。もちろん当時はそんなことが出来ず相手の評価=自身の評価としていたから精神的にも余裕が無くなり、最終的に自暴自棄になってしまったのだと思います。他人のこと言えませんね。
但し、その経験を経て今だからこそ発信できることは記憶より未来の思い出づくりに専念することを僕は考えます。時間は不可逆です。現代の科学力では戻ることも出来ず、もちろん変えることも不可能です。『時をかける少女』や『素敵な選タクシー』のような世界では過去を変えることができるのでしょうが、現実問題無理です。でも、思ったことありませんか?「もしも、過去を変えることができたら自分は〇〇だったのに」
僕もありますよ。思って仕方がありません。そんな世界があったらいいな、寧ろ未来からダメダメな自分を変えに来る可能性はゼロではない、つまり可能性はゼロではないかも←(自身のいい訳です)
先にも書きましたが言い訳は大切です。でもどれだけどの言い訳に期待できますか?
もしも前節の言い訳を通すのであればAIに負けているかもしれません。これ以上の敗北感は僕だったら恥ずかしい。だって記録にないモノにAIは計算できない。更には架空の物語に陶酔してしまい自分の未来を委ねてしまうのはとても可能性論でお話しすると難しいと思われませんか。
話を戻します。逆上がりが一年間練習しても出来なかった。それは事実、過去の記憶として存在しますが人間は成長する生き物です。更に他者の意見を受け入れることにより格段と成長することがあります。しかし、そこで邪魔してくるのが過去の失敗記憶です。失敗の記憶は厄介なことに恐怖心すら連れてきます。トラウマです。
如何にそのトラウマを制するか。それは自分の過去の記憶を克服しようとする気持ちや他者の意見を受け入れて自分の可能性を高めようとする意欲です。一人もできますが、自身が経験した中では他者の意見をもとに可能性を高めて成功した体験が多かったと言えます。一人で頑張るのは大変ですが、一人で努力して克服する方法については次回のブログ更新時のテーマで詳しく記載したいと思います。
深層心理(自分で気づかない心)では過去の経験というものが先行して予測してしまうことは多々あることです。それが良くない記憶であればあるほど自分の記憶で現在の自分を追い込み、未来に希望を持てなくなってしまうこともあるかもしれません。でもよくない記憶って似通った場面でないと思い出すことはなかなかありませんか。それとも広義に生活の中で(例えば恋愛)とかになるとやっかいですが...
デジャヴュてありますよね。それもひとつなのかもしれません。前にもあったなこういう場面、そんな時はなるべくその前にもあった経験を傍らに置くことをお勧めします。自身も似たような場面が社会人になってからも何度もありました。しかし、そこでは過去の記憶は傍らに置き現在進行形の自分で生き続けました。でないと自営業で経営者として生きていけないです。この時点で少々矛盾はしておりますが、経験則から過去の体験によって恐怖心にかられたことは幾度もあります。でも、その記憶を傍らに置く【現在のみに必死に立ち向かう】更に、周囲に相談して自分のモチベーションを高めることです。今までの経験談から過去の記憶が自身の助けになったのは護身用に習った合気道くらいですかね(笑
お問い合わせ方法の改定
こんにちは。
現在、こちらのはてなブログと、独自でウェブサイトを構築中です。
コメント等でのお問い合わせに気づかないこともあり仮相談専用のアドレスを作成しました。
-
pgv.giveyourvoice@gmail.com
セキュリティや相談者の個人情報保護の観点からメールサーバに統一することも視野に入れており現在は仮相談アドレスとしております。ウェブサイトが完成し、窓口を変更する際は必ずお知らせいたします。
ここからはひとりごと(僕の悩みかも)です。
※重要ではないのでスルーして大丈夫です!
SEの仕事をしておりますが、個人情報の保護とかセキュリティ強化はイタチごっこですね。もちろんブログを運営しているので責任を持って対応する所存です。
でも、昔は良かったなと感じることが最近感じます。スマホが普及する前の話、固定電話が主流の頃は学校の連絡網や回覧板に当たり前のように電話番号や住所が記載されていました。もちろん、情報を共有していい範囲は約束事で決められていました。
指切りげんまん!!
みたいな感覚ですよ!つまり信頼で個人情報を管理していたんですね。
現代は通信速度も加速し大容量のデータを取り扱えます。だからこそ悪用する人も出てきてしまうのが文明が発達するにつれての代償なのでしょうか。
人と人との繋がりも薄れつつあるように感じます。僕はなるべく対面で友人と会話することを心がけていましたが、コロナ過でオンライン飲みや雑談が増えました。ちょっと苦手だったりするんですよね。やっぱり人には第六感があるのでしょうか。画面に映る友人の声や映像は0と1の組み合わせで送信されたデータをを目の前に可視化されたものです。(うん、考えすぎかな)
そう考えるとロボットと会話しているようにも感じる時もあります。もちろん便利な機能ですし緊急事態宣言下では非常に便利なツールです。
でも、コロナ過が収束に向けてもその癖が抜けない自分もいるんですよね。
前回のブログ『自暴自棄になる前に試してほしいこと』でも書きましたが、やはり家族や学校、会社以外の場所にコミュニティをつくることは大切だなと感じます。実際コロナ過で'引きこもり'と呼ばれる方の人数が急増したという統計もあります。やっぱり、外に出るということ、対面で人と話すことは心の健康にとってたいせつなんだなぁと感じます。
セキュリティ強化とプライバシーの保護は別物として考えるように最近はしています。セキュリティ強化は自分の情報を守ること
プライバシーの保護は他人の情報を守ること
情報化社会において昨今はマイナンバーカード問題…迷いますよね。
つくる?つくったは良いけど情報の漏洩は大丈夫?
スマホが普及する前はそんなことで悩んだり、迷ったことはなかったですよね。
電話番号が連絡網に載っていても怖いと感じることもなかったですね。
やっぱり現代に生きる人は時代の変化に適応すること、新しいルールに適応すること、生きているだけで知らず知らずのうちにストレスを感じる環境にあるんですね。
便利の代償は大きいと感じるひとり言でした。
最後まで読んでくださった方、優しいですね。本当にありがとうございます!
2023/6/25
髙橋直之
自暴自棄にならないように試してほしいこと
ご無沙汰しております。たっきーです。
暫く、心労によりブログを休止しておりました。皆様お元気ですか。
季節の変わり目です、体調にご自愛くださいね。
さて今回のテーマは「自分を評価する力」
私自身、なかなか難しいと感じて今まで生きてきました。隣の芝は青く見えるように、他社の秀でた部分が目立ち、自分を過少評価してしまうことも多々あります。
しかし、それって自然な思考だと私は考えています。寧ろ他者を評価し敬うことは大切です。時として自身の目標(メンターのような存在)にもなりえます。他者の行いを通じて成長するものです。子どもが両親の行いを真似して言葉やマナーを覚えていく過程に似ていますね。ですので自然なことだと私は考えます。
でも思春期を過ぎて、大人になるにつれて人の行いを見るだけでは成長に限界があります。また、他者を評価できるようになるのです。それはテストの点数による能力の差や自我が確立されていきます。自分は自分、他者は他者というように認識できるようになるからです。
心理学の話になりますが、マズローの欲求5段階説というものは皆さまも一度は耳にしたことはあるのではないでしょうか。
引用元:https://www.pbm555.com/blog/12009/
成長につれて欲求は上のステージへ進みます。思春期や大人でぶつかる欲求の壁で所属欲求と承認欲求が厄介な壁だと今振り返ると感じます。
さて、話を戻します。他者を認識し、他者を尊敬することはとても良いことです。自己の成長の過程においても大切なステップであると私も認識しています。しかしこの時、忘れがちなのは自己承認です。自分の能力・特技(つまり良いところ)が心の死角になってしまいます。そうすると、諦めや、劣等感「自分はダメだなぁ」と言うように自分で自分を過少評価、最悪の場合自己否定にも繋がり兼ねません。
私が不登校になったのも自己否定の連鎖で自分自身に自信を失くし、「僕はダメな人間だ」と殻に閉じこもったのが一つの原因だったと今だから考えられます。しかし、その時の自分は辛く、悲しい現実ばかりを想像し、外の世界から離別したい一心でした。
思春期の場合、自己承認はご家族や友人の支えが大切です。まだ精神が未発達な状態且つ不安定な時期ですから。それにテストや恋愛等、自分の能力や容姿の現実を次から次へと叩きつけられます。大人の場合は金銭的に余裕がある場合は行動範囲も広く、趣味等でストレス回避ができるかもしれません。しかし思春期の子は行動範囲も事実上狭く、コミュニティも大人と比較して広くありません。習い事や趣味、フリースクールも一つの手段化もしれません。登校拒否や不登校でお困りのご家族様も苦労されているかと思いますが、できる限りコミュニティを広げてあげることで、他者から評価されるチャンスも増え自己承認ができるようになるかもしれません。平たくお話しすると選択肢を広げてあげることが子どもの成長を助ける方法の一つかもしれません。子どもへのアプローチについては別の記事でも紹介しておりますのでぜひご一読ください。
さて、大人の場合はどうなのか。
僕も今、絶賛悩み中ですね~。でも悩んでいるからこそ、見えてきたことがあります。それが自分を誉める勇気です。(そんな表題の本がありましたね)
でも、アプローチが違います。
皆さまに三つの質問をします。
①自分の特技や趣味はなんですか?
②好きな人はいますか?
③最近楽しかったことはありましたか?
一つでも回答出来たら、それはご自分でしか体験できない特別なことです。もちろん他の人と被ることもあるかもしれませんが、それは一旦置いておきましょ!
先ずは小さなことでも出来ることをご自分の出来ることを評価し認めてあげることです。もしかしたら、それは他者にとっては羨ましいと思われることがあるかもしれません。
これは突飛な小話ですが先日、友人と「僕は○○ができる」と紹介した際に○○が出来るブランドで勝てないと感じるのは何?という話をしました。結論、「僕はバイオリンをつくることができる」が最強!!て話でまとまりました。居ますよね。某有名アニメ映画の登場人物に・・・そんなこと言われたら惚れてまうやろーーーっ!!
って言う小話でした。
でも、趣味は娯楽にもなりますが腕を磨けば周りから尊敬されたり、感謝されることもあります。自分の出来ること、小さなことで良いんです。タイピング速度が速い、釣りが好き。ギターをコード引きできる。歌が上手い。車の運転ができる。マンガが好き。
僕から見たら好きなことに没頭できる人が羨ましいです。マンガについて熱く語る人が居て、僕はそこまで没頭できる趣味がないなぁと思いつつも、食い入るように聴いていました。誤解しないで頂きたいのは自慢話ではないということ、自慢話ができればこの記事のテーマは既にクリアです。それだけ自分に自信があるということですから良いと思います。でも自慢話のし過ぎは、ちょっと...ね。
もしも今ぶつかっている壁がある場合は、ベクトルを変えて違うことにチャレンジしたり行動してみることです。限られた環境やコミュニティの中では人間はストレスを抱えやすいです。自分を肯定できなくなったり、自信を失くしたりする。サイクルです。
心に余裕ができると自己承認はしやすいと思います。なぜならば抑圧から解放されることで自分らしく過ごせる時間をつくりやすいからです。自分らしく、大切なキーワードです。皆さんは「今、自分らしくすごせているなぁ」て感じたときはありましたか?
もしあった場合、それがご自分の個性であり、他の誰にもないモノです。
その感覚を大切にできたらいいですね。
僕は先日、同級生と伊豆までドライブ旅行してきました。
その後、仕事や家事にも普段以上に身が入るようになりました。
2023/6/24
髙橋直之
違和感と感じたら考えてみよう
こんにちは、たっきーです。
ご無沙汰しております。5月8日に交通事故に遭い、それからというもの半身不随で痛み止めの投与と右腕の痺れからの回復に勤しむ日々でした。未だに手先の感覚がない為、少しずつでも記事の投稿を今後も続けていけたらと思います。
長らくお休みしてしまい申し訳ありませんでした。
今回の記事では、闘病生活をする中で覚えた大きな疑問について書きたいと思います。
『真実』とは自ら立証しない限り、真実にならないこと。
事実として自分が被った被害や、家族、友人への影響は大きい者でありました。
しかし、立法社会の上では事実には客観的な根拠が証明されて初めて『真実』として社会に認めてもらうことができないと言うことです。
いくら「本当にあったことだよ」
と伝えても周囲に受け入れてもらえない事実も存在することを体感したのです。
真実とは難しいですね。
でも真実は事実とは言いきれないものです。
いじめ、ハラスメント、被害者の立場であると
事実を真実として立証する責任があるものがこの立法社会であるものです。
誰が裁くのか?法の下の平等と良く言葉が使われますが、僕には平等の域に達するまではとても難しいと感じた。それも、事実を立証する必要があるからです。事実を立証するためには根拠が必要です。論より証拠であり、もしも自分が平等に権利を与えられているとしても、事実を立証するまでは非常に長い道のりがあると思います。
実際に、事故に遭い相手方に請求しようとしても。
こちらが被った被害状況については立証が必要です。事故により損傷したPC類、またケガによる逸失利益等が挙げられる。でも、事故は事前から想像できるものではなく、急に起こるもので自らが被った不利益を立証する術は少なく泣き寝入りすることしかできなかった。
例えば、置き換え用のない自称であるけども、障がい者があるが故に自らが被った被害を発言出来ずに事件化に至るまで時間のかかった事例もある。
『疑わしきは罰せず」
原告も被告も、裁判の場で対面して論争を交わさなければならないけれど、僕のような交通事故と違ってより複雑な理由があって被害者自身が立証までに至らず泣き寝入りすることも少なくないようです。
僕はここで話したいことは真実とは何か?
被害者自身の主観かもしれないけれど、事実が反映された結果には現状では至に難しいこと。
証拠材料を集めるには時間と、自身の心の中で打ち明けられる限界があるもの。
だから、表面化している社会問題は氷山の一角でしかないと僕は思うんだ。
稚拙な言葉で説得力はないかもしれないけれど、問題として日々ニュースに取り上げられる内容は本当に一部分だと僕は感じたんだ。僕の被った事故による被害は比べるには足らないし、そもそも比較することでもないけれど、短いブログの文章だけれど表面化している社会問題は氷山の一角として考えてみたらどうだろう?
僕はTV、新聞、ラジオ、様々なマスメディアに触れているけれど、それを鵜呑みにはしたくないし常に疑問を抱いたり考えたりしている。今回、たまたま自分に降りかかった災禍は、よりマスメディアの発する報道を疑え!とまでは行かなくても報道に至るまでの背景や、忖度が裏に見え隠れするように思うようになった。
髙橋直之(たっきー)