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不登校経験を経て社会人となったやつらの発信活動

違和感と感じたら考えてみよう

こんにちは、たっきーです。

ご無沙汰しております。5月8日に交通事故に遭い、それからというもの半身不随で痛み止めの投与と右腕の痺れからの回復に勤しむ日々でした。未だに手先の感覚がない為、少しずつでも記事の投稿を今後も続けていけたらと思います。

 

長らくお休みしてしまい申し訳ありませんでした。

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違和感と感じたら、考えてみよう。

今回の記事では、闘病生活をする中で覚えた大きな疑問について書きたいと思います。

 

『真実』とは自ら立証しない限り、真実にならないこと。

 

事実として自分が被った被害や、家族、友人への影響は大きい者でありました。

しかし、立法社会の上では事実には客観的な根拠が証明されて初めて『真実』として社会に認めてもらうことができないと言うことです。

 

いくら「本当にあったことだよ」

と伝えても周囲に受け入れてもらえない事実も存在することを体感したのです。

 

真実とは難しいですね。

でも真実は事実とは言いきれないものです。

 

いじめ、ハラスメント、被害者の立場であると

事実を真実として立証する責任があるものがこの立法社会であるものです。

 

誰が裁くのか?法の下の平等と良く言葉が使われますが、僕には平等の域に達するまではとても難しいと感じた。それも、事実を立証する必要があるからです。事実を立証するためには根拠が必要です。論より証拠であり、もしも自分が平等に権利を与えられているとしても、事実を立証するまでは非常に長い道のりがあると思います。

 

実際に、事故に遭い相手方に請求しようとしても。

こちらが被った被害状況については立証が必要です。事故により損傷したPC類、またケガによる逸失利益等が挙げられる。でも、事故は事前から想像できるものではなく、急に起こるもので自らが被った不利益を立証する術は少なく泣き寝入りすることしかできなかった。

 

例えば、置き換え用のない自称であるけども、障がい者があるが故に自らが被った被害を発言出来ずに事件化に至るまで時間のかかった事例もある。

 

『疑わしきは罰せず」

 

原告も被告も、裁判の場で対面して論争を交わさなければならないけれど、僕のような交通事故と違ってより複雑な理由があって被害者自身が立証までに至らず泣き寝入りすることも少なくないようです。

 

僕はここで話したいことは真実とは何か?

被害者自身の主観かもしれないけれど、事実が反映された結果には現状では至に難しいこと。

証拠材料を集めるには時間と、自身の心の中で打ち明けられる限界があるもの。

 

だから、表面化している社会問題は氷山の一角でしかないと僕は思うんだ。

稚拙な言葉で説得力はないかもしれないけれど、問題として日々ニュースに取り上げられる内容は本当に一部分だと僕は感じたんだ。僕の被った事故による被害は比べるには足らないし、そもそも比較することでもないけれど、短いブログの文章だけれど表面化している社会問題は氷山の一角として考えてみたらどうだろう?

 

僕はTV、新聞、ラジオ、様々なマスメディアに触れているけれど、それを鵜呑みにはしたくないし常に疑問を抱いたり考えたりしている。今回、たまたま自分に降りかかった災禍は、よりマスメディアの発する報道を疑え!とまでは行かなくても報道に至るまでの背景や、忖度が裏に見え隠れするように思うようになった。

 

髙橋直之(たっきー)

新しいステージへ

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緊張気味です。。。


いつも、ご購読頂いている皆さまありがとうございます。

Please Give your Voiceは新たなステージへ。

 

いつもブログの最後に署名として本名とfacebookのアカウントのURLを載せていました。

でもやっぱりブログの執筆者の顔が見ないとこうしたセンシティブな内容だもの…

 

不安ですよね。

 

そこでYouTubeにブログの内容を動画でアップロードしていきます。

伝えたいこと、考えて欲しいこと

 

表情、声色、間、等、口語体で顔が見えるメディアにします。

めちゃくちゃ初心者です。

 

お恥ずかしながら早速投稿致しました。

良かったらチャンネル登録よろしくお願いいたします。

 

www.youtube.com

しょうがい者 Let it ~ ?

こんにちは、たっきーです。
3月になりましたが夜はまだ冷え込みますね。
”暑さも寒さも彼岸まで”と祖母は言います。
 
福島県須賀川から8里、32kmもの山奥で生まれ育った祖母です。
猪苗代、会津へ抜ける峠で暮らした過去が93歳になった今も尚足腰も健康で何より尊敬できる歴史の語り部です。
 
祖母には自分に精神障がいがあることを打ち明けておりません。昭和の戦時中から戦後の発展や経済成長を歩んできた人です。
当時の記憶や考え方、主観は変えることが僕には出来ません。
 
一度、打ち明けた事が有りますが「気狂い」とその当時では言われていたそうです。戦後の経済発展に寄与してきた方々は僕には想像できない多くの苦労をされて生きてこられたのだと思います。それ故に社会に淘汰され働けぬ者はは「かわいそう」と言われていたそうです。
 
なので、祖母は常に厳しい言葉を僕にかけてくれます。
それはそれで、その時代の考え方であるのと同時に、祖母には悪気はなく僕を鼓舞するための言葉だと分かっているから話を聴いています。
 
時は平成を越して令和になりました。
その時代において求められる考え方や生き方があると考えています。
コロナ禍である中で、外国人観光客も激減し観光産業や飲食産業は大きなダメージを受けて現場に携わる方は多くの苦労をされています。
中には時代とともに必要とされるものされないものは淘汰されるべきである。だから令和の代で潰えようとも時の流れの定めであると受け止め、看板を下ろす覚悟の方とも仕事でお会いしたことがあります。
 
ご自分で自然に身を委ねそのように決意されているのであれば、私も言葉が出ませんでした。命も物であってもいつか亡くなるものであるから愛おしく、貴重である。その方は工房で漆塗り細工をされている方でした。歴史に幕を閉じても、本当に価値があると評価されれば、残されるべきものは遺産として後世でも生きていくでしょう、と。寂しげな言葉でしたが、潔さとモノの価値とは何なのか考えさせられる貴重なお言葉でした。
 
話が表題から大分、外れてしまいましたが、『しょうがい者』広義な題名ですが過去の歴史から振り返って行きたいと思います。
 
「健康で文化的な最低限度の生活」2014年度に漫画化され後にドラマでも放映されました。どこかで聴いたことがある言葉だと思います。
 
日本国憲法において第三章、生存権について書かれた、第25条の条文です。
そもそも日本国憲法とはいつ制定されたのかというと今から約70年前、正しくは73年前の昭和45年の正に戦後、GHQの統括の元つくられた草案が憲法として初めて追記されました。
 
法律上ではよく、「本来ならば持っている人間として最低限度の能力」と云われているそうですね。「持っている者」「持てなかった者」も平等な権利や平等な最低限度の生活を保障するとも云われています。
 
よく保証や補償と言った漢字は目にしますね。「保障」とは難しい言葉で一定の地位や状態を保護することを言います。
 
補償や保証は本来ならばあるべきものを直す。また償い弁償する。
あるべきものを保つ為の保証などを示します。
 
同じ言葉でも漢字一文字で意味が大分変わってしまうのですねぇ
日本語は難しいなぁ
 
ここで保障という言葉をフォーカスしていきます。
保障の障は障がい者として普段よく目にします。また障壁であったり”障”ってどう言う意味?もはやゲシュタルト崩壊寸前です。
 
障とは状態や地位、あるがままを示す言葉だそうです。
Google先生ありがとうございました。
 
Let it て英語で訳すと言うそうです。
あぁ、ディズニーで有りましたね、昭和を代表する歌手も歌っていましたね。
 
ありのままでいこう
ありのままでいよう
 
*ありのままの姿なんです*
 
障害者で且つて論争が有りました。「害」って第三者から見たその人の主観で有り用いるのは適切では無いよね。なんてだからよく、近頃では障がい者と表記された文面をよく見ます。でも、それも平成の時代になってから考えられたこと。
 
じゃあ、令和になり東京オリンピックパラリンピックの開催が迫り、ダイバーシティ(多様性)と言う言葉を耳にしますね。
 
世界には目の色が違う人もいれば、肌の色も、髪の毛の違う人も居ます。
そうした発信を行政はされていますが悲しいことに司法では認められませんでした。
 
大阪市の某中学校で髪の色が生まれつき明るい人がいました。
しかし、学校では校則が厳しく黒髪に染めなさいと厳しく指導されたようです。
時には対象の生徒の座席を無くす等、甚だいじめに近い行為を教師がしているではないか!と憤りを感じました。
 
最終的にその生徒は不登校となり、自分の髪の色がコンプレックスになった
 
結果、裁判となりました。
 

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司法、が下した判決は
教員が行った座席を外す等の行為は不適当と認める
しかし、校則に基づいた教育機関上で必要な指導をしたまで、とし
 
頭髪の強制に対しては言及しませんでした。
訴状を読んでいないので裁判官がどのような判断を下したか経緯は分かりません。
 
但し、司法機関は校則を元とする教育を目的とした指導であると認め、”
その人の生まれ持ったありのままの状態を強制することに対して言及しませんでした。
 
違和感を感じれずにいられませんでした。
生まれ持った頭髪を染めなければいけないこと、嫌なのに強制が許されること。
教育を目的とするのならば””ありのままの姿が許されないこと。
 
70年も経過している憲法がそのままであるのも異例ですが
その70年前に制定された憲法で保障されているはずの、状態や地位を最低限度保障すると言う憲法に対して違憲ではないの?と感じさせられずにはいられません。
 
 
 
それでは、ここで表題の”しょうがい者”は?
 
生まれ持った特性や不幸な事故で失った手足
身体、知的や精神障がい者はどうすればいいの?
 
三権分立されている民主主義国家?ではありますが
 
僕は日本が、少し怖く感じました。
 
 
髙橋 直之

あり得ないなんて言わないで

こんにちは、たっきーです。
お久しぶりです。関東は春一番が吹いたそうですが夜は寒いですね。
コロナも心配ですが皆さま体調にはご自愛ください。
 
突然ですが、僕は2021年1月18日に警察が家に来て出頭を命じられました。
その時は何のことかサッパリと記憶に無かったのです。
 

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この世に存在してはいけない人間はいないんだ。
 
また、家に突入してきた警察官は手帳も見せず、病の母を4人で押し切り僕の部屋へ侵入しました。
カメラに証拠は残っており、然るべき対応をする方針です。
 
その時点で自分が何を犯したかわ分からないまま、出頭を命じられた日に警察署へ赴き事情聴取が始まりました。
その時僕は被疑者としての罪状は不法投棄でした。
 
…遡ることお正月の1月2日私は、自宅のリフォームに備えて布団3枚を積み込み外出しました。経緯は省略致しますが、某コンビニ店で布団3枚を放置したまま僕は車を出してしまいました。それは紛れもなく事実であり。反省、それ相応の処罰を受けるべき対象であることを私は認識しております。
 
何故、下ろしたか…
鞄が無いことに某コンビニ店についた私は、布団を積み込む前に鞄を布団の下に入れてしまった事に気がつきました。そこで布団3枚を下ろして見つけたのです。そのままコンビニで購入する品物が欠品していることを知り、その時はある事情で急いでいたため、そのことに頭がいっぱいで布団を積み込む事を忘れてしまったのです。
 
この文章を見ると、とても良く出来た言い訳、自己都合の自己中心的な言い訳としか世間一般的、少なからず調書をとった警察官にとってはそう思えたのでしょう。私は何度も同じ主張を繰り返しました。その時に言われたのです。「そんな言い訳はあり得ない」と…
 
僕も限界でした、何度説明しても同じ質問をされていて「放置」をした事実はあるにしても僕はこう返しました。「あなたにとってあり得ない事でも僕にとってはあり得る事何です」と
 
犯罪です。言い訳はしたくはありません。
ただ、「あり得ない」と言うことは私自身が世間一般から見てあり得ない存在であり、この世に存在してはならぬ者として感じた為に、反論をしました。
 
障がいを言い訳にしたくは無いけれど、この時はじめて自分がADHD(注意欠陥多動性障害)である事を打ち明けました。
 
私は日頃から忘れ物も多く、このブログにおいてもわざと誤字脱字を直していません。しかし、仕事やプライベートでも忘れてはいけないことがあります。
その為に僕は毎日、日記と常に行動する(タスクリスト)をノートに認めて1分刻みで書き持ち歩いているんです。但し、お正月のこの日だけはイレギュラーもありタスクリストを持ち歩いていないことが今回に起因したことでした。
 
僕の場合、注意欠陥の傾向が主にあり、医師の指導もありタスクノートを1分刻みで作るようにしていました。
 
ここで問います。
皆さんはタスクノートをゴミの処分から食事に至るまで日記に書き起こし、常に自分がすべきこと、そして、自分がした事を毎日チェックしますか。
 
「刑事さんは普通ならしない」と答えました
 
普通って何でしょうか。
確かに僕には障がいがあるが故に『普通』では無い行動を普段しています。
それはエラーをなくす為、今回の不法投棄してしまった事実は事実ですが、それを防ぐ為に精一杯してきた行動ですが、僕はイレギュラーな対応に弱い事、焦る事、そしてすべき事を忘れてしまう自分の恥ずかしい一面を再認識しました。
 
でもね。恥ずかしいとか、不甲斐なさ、とか
確かに犯罪は事実。でも償うこと、謝罪すべきこと、社会人としての責任は自分のしてしまったことに対して最大限の姿勢は示しました。
 
でも、その後に至っても、あり得ない、普通では無いよね…
そうした発言に僕はキズ付きました。
 
被疑者であっても、人格まで否定されることは有ってはならないことでは無いしょうか。自分の事を棚に挙げて発言できる権利や主張は私にはありません。
 
でも、色々な人間がいます。十人十色で性格や特性と言った表現を私は用いたいです。自分の汚点(罪歴)を社会に晒すことは、リスクがある事を承知な上で僕は発信します。
 
多様性、ダイバーシティと言う言葉がこの日本社会ではまだまだ浸透していない事を受け止めざるを得ないのです。日々生き辛さも感じます。
特に行政機関において多い話です。
 
話は変わりますが…
そもそも、うつ病などの症状で重度な疾患をもつ人が受けられる社会的補償を受けるための手続きも複雑で受けられない。僕は受けられませんでした。後から知りました。傷病給付金の申請や失業手当の受給延長等、僕は受けられなかったのです。
 
出来る容態なら、出来るかもしれません。
しかし出来ない容態であるからこそ受けられるように制度が活用できる世の中で有って欲しいのです。
 
してしまった事、出来なかった事
 
普通ならば出来ると一言で片付けられてしまう日本の社会はどうなんでしょう?
 
僕は今回の一件に関しては深く反省しております。
しかし、そこで警察官に人格を否定される由縁はどこにもありません。
 
あり得ない、いや、それはその人から見た視点であり、
僕はそれがエラーが想定されるから日々、日記とタスクリストを照らし合わせてエラーが無いか確認する日々です。そうしないと、同じ過ちを繰り返してしまう、その為の予防線を常に引かないと生きられない自分は醜いでしょうか。
 
罪悪感と共に悔しさを感じました、
無論、全科として僕は受けるべき処罰は受け入れます。
だって、自分の家にゴミが捨てられていたら、嫌だもの。人にされて嫌なことを他人にしてはいけないのは当然です。
 
しかし、問いたいのは4人で家に警察手帳も見せずに押し入り、僕のプライベート空間に侵入することはいくら警察官で有っても、権利は有りません。その上に時間は朝8時で薬も効いていないボヤッとしていた状態でした。病弱の母、そして有り得ないと一方的に人格をその場で罵声を浴びせられる由縁は無いのです。
 
”有り得ない””出来ない”そうした主張を繰り返しされるには、納得いきませんでした。
日本国憲法で有ります『国民として最低限どの文化的な生活を保証される』と
 
法律以前の問題で、人にはそれぞれ特性や性格、相性が有ります。
この世に存在してはならない人間はどんな凶悪犯罪を犯していても保証されるべきだと思うのです。
 
欠点や誤ちは有ります。だって人間だもの。
言い訳がましいですが、どんなに欠如していても、その人は必死に息苦しさを感じていながらも生きているんだ。
 
日本には確かに経済的にも、医療費や介護保険など他国に比較して充実したサービスが有ります。
しかし、申請主義なんです。社会保険国民健康保険介護保険制度から後期高齢者医療制度に至るまで充実した救済措置が設けられていますが、「申請」出来ますか?また認定されて補償を受けられるまでのタイムラグも有ります。
 
必要な時に必要な補償を受けられる権利、主張を与えられていても
精神的、身体的に動けない身体では申請まで辿り着けないのが現状です。
 
昨今は確定申告を推進されていますが、それも払いすぎた税金の還付を受ける、または納税義務がある人には納税する義務が有ります。でも、ここでも違和感があるのが払いすぎた税金に関しては税務官もノータッチなのです。
逆に納税義務を怠れば処罰や延滞納税付加金が請求されるシステムです。
 
補償や権利はあるけれど、知識や身体のコンディションによっては受けられない補償が有ります。
対して義務を怠れば、法律違反として吊し上げられるのです。
 
マイナンバーカードの普及率が頭打ちになるのは国に全ての情報を預けていのか疑問に感じている人が多いからでは無いでしょうか。
 
話を戻します。
僕は全科が付きました。それは私のエラーで有り、ご迷惑をかけた店舗様には謝罪の言葉も見つかりません。
しかし、行政や税務、警察に対して、僕は疑問を抱かざるを得ないのです。
 
受けられる補償を受けられない、一方的に「有り得ないことだと」人格を否定される。
一般個人の立場として、僕は行政府に対して疑問を抱きます。
 
人は人です。
この世に生を受けた以上、平等且つ最低限どの権利を行使できる権利が有ります。
しかし、その権利を知らなければ損する社会に僕は納得が行かないのです。
 
どんなコンディションに有っても最低限どの補償が受けられる社会で有って欲しいと願います。
これから確定申告も始まります。知らなければ損する 。知らなければ人格を否定される。
 
僕はどんな境遇に有っても生を受けた以上、平等な権利を行使できる社会で有って欲しいと願い、活動します。
 
僕は違和感を感じずにはいられません。
 
髙橋直之

ありのままの自分を表現しよう

ご無沙汰しております。
たっきーです。年末年始は色々と忙しく中々ブログの更新ができませんでした。

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変わりたい、でも変えられない。そんな時は自分で自由に表現してみよう。

きっかけになるかもしれないから。

しかし、仕事の関係で出張さきで未曾有の大雪により1人で宿に宿泊せざるを得ない状況に置かされ他近況kら孤独な時間で昨年度の振り返りをしておりました。
 
『孤独を友とせよ』
と言う有名なエッセーがありますね。家族にも友人にも会えないこのご時世です。
1人で昨年を振り返った結果、表題の「ありのままの自分を表現しよう」と言う結論に至ったのです。
 
僕は27歳です。今年の誕生日を迎えたら28際になります。
そろそろ自分のキャリアも固めなければなりません。でも、その時に疑問を感じたのです。
 
コロナ禍の現代で、どんな身の振り方をしようか?
先も読めません、ウィルスと人間との戦いです。今現在も医療従事者の方々は現場で立ち向かわれています。そんな折、僕は傍観すること、感染対策に勤しむので精一杯です。
 
このブログを始めたきっかけも自分のように、精神的な事情で悩んでいる人が安心して相談できるプラットフォームにしたかったのです。
 
でも、今の社会はコロナで精一杯。
僕は無力感を感じずにいられませんでした。身内への、友人へのクラスターを防止するため1人でいる時間の多い年末を過ごしました。
 
その時に、僕はふ、と気が付いたのです。
自分のできる範囲で、今後もこのブログを更新し続けること。
 
社会問題に力に慣れないけれど「自分のすべきこと」と言ったら大袈裟ですが、出来る活動や発信は続けるべきだと考えたのです。
 
ブログを読んで頂いている読者様から沢山のご相談や講演の依頼を頂きました。
自分がADHDで大人になって知った特性を、幼少の頃から感じていた苦しみや悲しみを伝え、少なくとも、社会に広め、貢献できるプラットフォームを維持することが僕ができる最善の策だと感じたのです。
 
表現て難しいですよね。
ブログで文章化する、歌詞として歌にする、物語として文章化する。
様々な方法があると思います。僕は演劇を8年間続けましたが、このご時世の中で舞台として伝えるのは困難です。また、講演会も難しい情勢です。
 
ならば、できることは何か?
 
考えた時にブログの継続でした。言い訳になりますが、年末年始は慌ただしく更新できませんでしたが、ブログを重ねることで、それが僕なりの表現となると感じたんです。
 
小さな活動でもいい。
でも継続は力なりです。僕は小学生の頃から中々自分の気持ちを文章化することは苦手でした。今もそうです。稚拙な文章と分かりながらもブログで発信の活動をしています。
 
何故なら、質(中身)ではなく、思いが伝わるまで継続をすることが大事だと学びました。このブログを通じで様々な繋がりを結ぶことができました。
 
稚拙な文章、稚拙な表現、そんなの関係ねぇ!!です。
 
気持ちと、発信、それを体現かするのが表現なのだと気がつきました。
辛い、苦しい、泣きたい、そんな時にどうか我慢しないでください。我慢せずにありのままの気持ちを表現してみると、環境が変わるかもしれません。
 
プライドや自己防衛などの本能が働いて難しい状況もあるでしょう。
僕もそうでした。
 
でも、表現しないと周囲に伝わらない、ご自分を取り巻く環境も変わらないのです。
情けなくても、格好悪くても良いと僕は割り切り、このブログを実名で更新しております。何故なら隠せば隠すほど自分が辛くなってしまうからです。
 
稚拙でも良き、下手でも良き、自分の気持ちを表現することが環境を変える第一歩だと1年間ブログを継続して沢山の人に学ばせて頂きました。
 
学んだら、共有して、僕は少しでも自分と同じような悩みを抱えている人を減らしたいのです。それが現代社会における僕のできる小さな試みです。
 
今後もブログの執筆活動は継続します。
個人での相談も請け負います。僕にできることはなんだろう?
 
それが、「表現」ブログという小さな活動ですがこの場所を継続する。
心の拠り所を作る小さな活動ですが、僕にできる精一杯です。
 
皆さんも精一杯の「表現」、下手でも良き。
まとまらなくても良き。
 
ご自分の環境を変えたいのならば試してみる価値があると僕は思います。
1年間ブログを続けて学び、経歴を積んだ僕からの新年最初の発信です。
 
どうか、良き年になりますように。
 
髙橋直之

言葉のちから②

こんにちは、たっきーです。
以前にも投稿したメッセージです。
 
でも、言葉にするって難しいですよね。
相手を説得するには…。それが両親であったり友達であったり
自分の気持ちを言葉にして相手に伝えるのは難しいものです。
 
だって、このブログですら、一言一句、綴る言葉も選んでいるのです。
でも、文字だけでは伝えられることには、限界があります。
 
できるのならば、講演会やシンポジウムのように直接お話しできる場が欲しいのですが、まだまだ私にはそうした機会は少ないです。
 
文字と口頭で伝える言葉では大きな違いがあると思うんです。
何故なら、口頭ならば感情をより伝えられると思うからです。
 
でも、中々、口頭で自分の気持ちを伝えるのは勇気が入ります。
僕は不登校の時、親に対面で口頭で自分の本心を伝えることができませんでした。
後になって、ようやく手紙で「自分はあの時こうだったんだ」と伝えられたんです。
 
でも、手紙では伝わり切りませんでした。僕の文章が言葉足らずだったのか…
「甘い考えだと一蹴されてしまったんです」
 
手紙に綴るだけでも勇気がいったのに、理解してもらえなかった。
とても、ショックだったなぁ。
 
その時は、親に対して過去に迷惑をかけたと思う謝罪と、自分が学校に通えなかった気持ちを伝えたかっただけなんです。でも文字の力は本心と違う内容、誤解を招かざるを得ないリスクがあると知りました。それ以降はどうせなら対面で自分の言葉を整理して、メモ書きでもいいから、親に話す時はなんとかシナリオを作って話して気持ちを言葉に乗せて口頭で伝えたんです。
 
手紙は一方通行、口頭で相談した時は、色々と訊かれましたが自分が悩んでいたこと、辛かったことを親の元に届けることが、なんとかできました。
 
もちろん話す時は、支離滅裂に近いような言葉。
でも、幸いながら僕の両親は聴く耳を持ってくれました。
 
だからなに?
口頭で気持ちを伝えることが大事なんだと言いたいの?
 
違うんだ、その過程が大事だと思うの。
手紙でもいいと思うし、自分なりの言葉にして相手に伝えようとする意思が大事だと思うの。
 
友達と喧嘩をした時
親に言いづらいことがある時
 
学生は多感な時期で、僕はプライドが高かったから中々、本音を言葉にできなかった。
もしかしたら思春期で言いづらい事や、悩みをうちにひめている人がいるかもしれない。
僕はそうだった、だから皆がそうだとは言いません。
 
ただ、経験談で同じような境遇にある人がいたら届けたい言葉があるんです。
 
それが
『言葉のちから』
 
私はRAYさんと言うレゲエのミュージシャンが大好きです。個人的にですが。
でも歌にすると自然と歌詞につられて自分の思っていることを体現してくれているように感じたのです。
 
僕の話に戻りますが高校時代に演劇と出会い、大学までの6年間を演劇に投身してきました。何故なら、自分の気持ちをセリフに込めて発信できた時、心のわだかまりがスゥーっと弾いていったんです。
 
最近のドラマですが柴咲コウさんが主演の『35歳の少女』を観たときに似たようなシーンがあり、共感しました。親子喧嘩の場面で謝る際にニュースキャスターになりきり手紙を読むと言うシーンがありました。
 
伝え方は人それぞれですが、手紙でも、なりきりでも、有名なアニメの名言を引用しても良いのです。それが自分の気持ちに近いものだったら、他の人が使った言葉でも多用しても良いと思うのです。何故なら語彙力に乏しい学生の時期、僕は演劇から多くの語彙を学び様々な伝え方を学びました。
 
誰かが使っていた言葉でも、それが自分の意志に類似しているのならばドンドン使ってもいいのでは?と僕は考えます。ただし、自分で文章でも手紙でも相手に対して正直に思う気持ちを伝えることが大事だと感じるのです。
 
僕は『言葉のちから』を信じています。
力関係が故に発言しにくい立場の人もいるでしょう。
 
いじめの相手
親に対する意見
先生に対する疑問
上司に対する不満
 
上下関係や力関係が生じている場面では、発言もしにくいでしょう。
勇気も必要でしょう。
 
でも、そうした場面でもあなたを守ってくれる社会です。”ハラスメント”と言う言葉が現代では多く多用されていますね。良いんです!力関係が生じるのならば誰か、又は第三者機関に相談して、あなたの発言権を守ってくれます。
 
自分は弱い立場だから発言できない…
諦めないでください。疑問に感じたら現代はネットで様々な情報が収集できます。
そうした機関を後ろ盾にすることも悪いことではありません。
 
みんなに平等に与えられている発言の権利なんです。
言葉のちから、伝えられない時は何かに頼っても良きです。引用もありです。
 
気持ちを伝えられるのが、唯一は言葉なんです。
ジェスチャーや姿勢と言った方法もあるでしょう。どうか諦める前に、自分の気持ちを整理してください。最初は支離滅裂でも良いんです。ノートに書く、そして手紙に書く、カンペを作っても良きです。伝えることが大事だと思うのです。
 
何故なら、あなたの気持ちが伝えられるチャンスだから。
どうか諦めないで、自分は諦めていた時期がありましたが、後悔しました。
何故、あの時にこの気持ちを言葉で伝えられなかったのだろう…
 
後になって後悔するなら、今のご自身のお気持ちを尊重して欲しいのです。
もちろん、言葉はたまに刃となり相手を傷つけるリスクもあるでしょう。
 
言葉選びはとても慎重ですが、場面や年齢、立場に応じて必要な制限もありますが
先ずは伝えられない立場にある人に対して、僕は、いくらでも方法があるのだと今回のブログではお伝えしたかったということです。
 
発言できない立場でしたら、僕にでも、親い話せる人に相談することも有りです。
どうか、ご自身の中で抱え込まず、言の葉に載せて相手に言いたいことがあれば伝えられることを願っています。抱え込むのは辛いです。痛いほど経験してきました。引きこもりだった時に…伝えられない、ノートにも綴れない、そんな日々で気持ちはぐしゃぐしゃでした。でも、現代は助けてくれる第三者機関が必ずあります。このブログ然りです。
 
行動より言葉が強いと私は考えます。
何故なら、行動に起こして結果を出すには労力が必要だからです。
言葉にすることで、相手に伝わる可能性はとても高く早いと思うのです。
 
どうか、抱え込まないで
ご自分の意志、気持ちを尊重して、言葉にして観てはいかがでしょう。
環境が変わるかもしれません。変わらないかもしれないけど、伝えることによりあなたの意志は発信されるんです。それによりご自分の望む生き方の達成や環境を得るチャンスになるかもしれません。
 
言葉のちから
 
どうか、良き方向で使って頂きたいです。
 
 
髙橋直之

自分の弱さを認める勇気

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弱い僕がいるから、強くなろうと鼓舞できる。

「寒いね」と言えば、「寒いね」と…
俵万智さんの短歌が頭を過ぎる、季節は11月になり今朝は寒くそれでも、自分の側に誰かいると暖かく感じる。人と人との繋がりは大切だ。
 
でも僕はこう言うけれど、元々は人見知り且、対人恐怖症のような時期があった
「僕はプライドの塊だった」
 
小学生のある日、ケガをしてしまった僕は運動をやめた。
食べては寝て食べては寝て、体重はあっという間に100キロ越え
体格を揶揄されて、悔しくて喧嘩して言い返したら、その一部始終しか見ていなかった先生は僕を叱った。元々、友だちも多くは無かったし味方をしてくれる人は少なかった。
口べたで、ケンカも弱ければ、運動もできなくなり、なかなか落とせない体重。
次第に家に引きこもるようになっていったのもその頃かな。
 
一度、休んでしまうと学校へ通えなくなる。
時間が経てば経つほどに学校にも行きにくくなるんだよね。
だって、一度逃げてしまったら、「負け」を認めるようなもの。だから自分のプライドが人との接触を更に遠ざけていったんだ。
 
プライドなんてそんなもの!
 
今はプライドも何もないんだ。だってもう勝ち負けが人生じゃないし。
悔しいなら、負けるなら、自分が強くなるしかないと、気づいたきっかけがあった。
 
高校へ進学した時に自分よりも(比べるものではないけれど)苦労や辛い過去を持つ仲間と出会った。そして友だちになった。その当時まで持っていた勝ち負けやプライドと言うベクトルで関係を築こうとすると、友だちを否定することにもなるし、自分も否定することになると感じた。多感な時期に人との出会いは自分の考え方や捉え方を広げてくれた。
 
引きこもっていた自分の心が、その原因のプライドというものが薄れて行った。
 
何故なら、人の痛みを知り、挫折の経験はより人間を強くしてくれる。
挫折や失敗、その当時はとてもじゃないけれど、何度も逃げたくなった。
忘れよう、逃げよう、でも学校、社会でも残酷で挫折や失敗から直ぐに放たれることはなかった。だから、自分でどうにかしなきゃ、と
 
でも、高校生になって強みができたのは友だちが僕の救いになってくれたこと。
自分でどうにかしなきゃ、ではなくて相談することを覚えたんだ。
 
相談相手も大事で、自分が感じた失敗による喪失感や絶望的な気持ちを受け止めてくれる人。その当時、周囲にはそうした経験をしてきた仲間がたくさん居た。だから、初めてそれまでの体験してきたことを理解してくれる。受け止めてくれて、自然とプライドやコンプレックスが薄れていったんだ。うーん、気にしなくなった…が正しい表現に近いかも。
 
それからは正直になれた気がするんだ。
コンプレックスやプライドに囚われて、自信を無くすようなことが少なくなったんだ。
 
今振り返ると、自分で自分を追い込んでいたような感覚だった。
両親は、世間の目や、周りの子”ふつうの子”と比べて僕を叱咤することもあった。
それは両親だって、困ったと思う。どうしていいか分からなかったと思う。何故、周りの子と一緒にできないのかと、比べてしまうのは必然だと思う。だから攻めるつもりもないし、両親には申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
 
そんなことより、やはり自分のプライドが原因だった。
自分の心だ。周囲と比較して人生の勝ち負けにこだわり諦めていた自分の心が学校からも、社会からも自分の足を遠ざけた原因だと今だからこそ振り返れる。
もちろん、当時の幼い頃の自分にはそんな心の余裕もないし、原因は自分にあると悟った時も過去の自分を攻めるつもりはないよ。
だって、その当時、それが精一杯だったんだもの。だからこうして記事を何通も書けるのかもしれない。体験したからこそ、その人にしかその苦しみはわからないでしょう?
 
辛かったね。
頑張ったね。
 
そのような言葉をかけてもらうこともシンポジウムや講演会を行う中で講聴者から声をかけられることがある。もちろん共感してもらえたことは嬉しいけれど、僕が求めていることはこのブログでもそうだけれど、自分の過去の慰めではないの。
 
ブログを読んで頂いたり、シンポジウムの参加者の中には、似たような経験の渦中にいる人が中にはいらっしゃるの。その人にぜひ僕の失敗談をバネにして頂きたいです。
 
このブログのほとんどのエピソードは恥かしながら、失敗談だ。
でも過去の失敗が自分の今に活かされていることはたくさんあるんだ。
 
大人になってからやっと過去の自分を肯定できた。
だからこそ、恥ずかしいと感じたことでも記事に書けるんだよ。
 
だから自分で言うのもおかしいけれど、僕の心は鍛えられたよ。
ちょっとやそっとじゃへこたれない、ある意味の頑固者であるかもしれないね笑
 
でも学校や社会で挫折しただけ、糧になっていることは確かなんだ。
乗り越えれば、乗り越えるほど自分に真っ直ぐ向き合える。
 
僕は不器用な人間だ。
もっと効率的な学び方があるでしょう。
思われるかもしれない。でも失敗からしかまだ学べないのは僕の欠点であり強みだ。
一度失敗したら、2度目の失敗はしない。失敗しても失敗しなくなるまで何度でもやってみせる。
 
そのモチベーションの根っこにあるのが、過去の自分があるからなんだ。
今だって人見知りは正直変わらない、克服しようとしたけれど、バレないようにはなれたけれど未だに対人恐怖症はあるのかもしれない。でもいいじゃない、長い目でそんな弱い自分とも、一緒に上手く付き合っていこうと思う。
 
 
 
髙橋直之