giveyourvoice

不登校経験を経て社会人となったやつらの発信活動

ありのままの自分を表現しよう

ご無沙汰しております。
たっきーです。年末年始は色々と忙しく中々ブログの更新ができませんでした。

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変わりたい、でも変えられない。そんな時は自分で自由に表現してみよう。

きっかけになるかもしれないから。

しかし、仕事の関係で出張さきで未曾有の大雪により1人で宿に宿泊せざるを得ない状況に置かされ他近況kら孤独な時間で昨年度の振り返りをしておりました。
 
『孤独を友とせよ』
と言う有名なエッセーがありますね。家族にも友人にも会えないこのご時世です。
1人で昨年を振り返った結果、表題の「ありのままの自分を表現しよう」と言う結論に至ったのです。
 
僕は27歳です。今年の誕生日を迎えたら28際になります。
そろそろ自分のキャリアも固めなければなりません。でも、その時に疑問を感じたのです。
 
コロナ禍の現代で、どんな身の振り方をしようか?
先も読めません、ウィルスと人間との戦いです。今現在も医療従事者の方々は現場で立ち向かわれています。そんな折、僕は傍観すること、感染対策に勤しむので精一杯です。
 
このブログを始めたきっかけも自分のように、精神的な事情で悩んでいる人が安心して相談できるプラットフォームにしたかったのです。
 
でも、今の社会はコロナで精一杯。
僕は無力感を感じずにいられませんでした。身内への、友人へのクラスターを防止するため1人でいる時間の多い年末を過ごしました。
 
その時に、僕はふ、と気が付いたのです。
自分のできる範囲で、今後もこのブログを更新し続けること。
 
社会問題に力に慣れないけれど「自分のすべきこと」と言ったら大袈裟ですが、出来る活動や発信は続けるべきだと考えたのです。
 
ブログを読んで頂いている読者様から沢山のご相談や講演の依頼を頂きました。
自分がADHDで大人になって知った特性を、幼少の頃から感じていた苦しみや悲しみを伝え、少なくとも、社会に広め、貢献できるプラットフォームを維持することが僕ができる最善の策だと感じたのです。
 
表現て難しいですよね。
ブログで文章化する、歌詞として歌にする、物語として文章化する。
様々な方法があると思います。僕は演劇を8年間続けましたが、このご時世の中で舞台として伝えるのは困難です。また、講演会も難しい情勢です。
 
ならば、できることは何か?
 
考えた時にブログの継続でした。言い訳になりますが、年末年始は慌ただしく更新できませんでしたが、ブログを重ねることで、それが僕なりの表現となると感じたんです。
 
小さな活動でもいい。
でも継続は力なりです。僕は小学生の頃から中々自分の気持ちを文章化することは苦手でした。今もそうです。稚拙な文章と分かりながらもブログで発信の活動をしています。
 
何故なら、質(中身)ではなく、思いが伝わるまで継続をすることが大事だと学びました。このブログを通じで様々な繋がりを結ぶことができました。
 
稚拙な文章、稚拙な表現、そんなの関係ねぇ!!です。
 
気持ちと、発信、それを体現かするのが表現なのだと気がつきました。
辛い、苦しい、泣きたい、そんな時にどうか我慢しないでください。我慢せずにありのままの気持ちを表現してみると、環境が変わるかもしれません。
 
プライドや自己防衛などの本能が働いて難しい状況もあるでしょう。
僕もそうでした。
 
でも、表現しないと周囲に伝わらない、ご自分を取り巻く環境も変わらないのです。
情けなくても、格好悪くても良いと僕は割り切り、このブログを実名で更新しております。何故なら隠せば隠すほど自分が辛くなってしまうからです。
 
稚拙でも良き、下手でも良き、自分の気持ちを表現することが環境を変える第一歩だと1年間ブログを継続して沢山の人に学ばせて頂きました。
 
学んだら、共有して、僕は少しでも自分と同じような悩みを抱えている人を減らしたいのです。それが現代社会における僕のできる小さな試みです。
 
今後もブログの執筆活動は継続します。
個人での相談も請け負います。僕にできることはなんだろう?
 
それが、「表現」ブログという小さな活動ですがこの場所を継続する。
心の拠り所を作る小さな活動ですが、僕にできる精一杯です。
 
皆さんも精一杯の「表現」、下手でも良き。
まとまらなくても良き。
 
ご自分の環境を変えたいのならば試してみる価値があると僕は思います。
1年間ブログを続けて学び、経歴を積んだ僕からの新年最初の発信です。
 
どうか、良き年になりますように。
 
髙橋直之

言葉のちから②

こんにちは、たっきーです。
以前にも投稿したメッセージです。
 
でも、言葉にするって難しいですよね。
相手を説得するには…。それが両親であったり友達であったり
自分の気持ちを言葉にして相手に伝えるのは難しいものです。
 
だって、このブログですら、一言一句、綴る言葉も選んでいるのです。
でも、文字だけでは伝えられることには、限界があります。
 
できるのならば、講演会やシンポジウムのように直接お話しできる場が欲しいのですが、まだまだ私にはそうした機会は少ないです。
 
文字と口頭で伝える言葉では大きな違いがあると思うんです。
何故なら、口頭ならば感情をより伝えられると思うからです。
 
でも、中々、口頭で自分の気持ちを伝えるのは勇気が入ります。
僕は不登校の時、親に対面で口頭で自分の本心を伝えることができませんでした。
後になって、ようやく手紙で「自分はあの時こうだったんだ」と伝えられたんです。
 
でも、手紙では伝わり切りませんでした。僕の文章が言葉足らずだったのか…
「甘い考えだと一蹴されてしまったんです」
 
手紙に綴るだけでも勇気がいったのに、理解してもらえなかった。
とても、ショックだったなぁ。
 
その時は、親に対して過去に迷惑をかけたと思う謝罪と、自分が学校に通えなかった気持ちを伝えたかっただけなんです。でも文字の力は本心と違う内容、誤解を招かざるを得ないリスクがあると知りました。それ以降はどうせなら対面で自分の言葉を整理して、メモ書きでもいいから、親に話す時はなんとかシナリオを作って話して気持ちを言葉に乗せて口頭で伝えたんです。
 
手紙は一方通行、口頭で相談した時は、色々と訊かれましたが自分が悩んでいたこと、辛かったことを親の元に届けることが、なんとかできました。
 
もちろん話す時は、支離滅裂に近いような言葉。
でも、幸いながら僕の両親は聴く耳を持ってくれました。
 
だからなに?
口頭で気持ちを伝えることが大事なんだと言いたいの?
 
違うんだ、その過程が大事だと思うの。
手紙でもいいと思うし、自分なりの言葉にして相手に伝えようとする意思が大事だと思うの。
 
友達と喧嘩をした時
親に言いづらいことがある時
 
学生は多感な時期で、僕はプライドが高かったから中々、本音を言葉にできなかった。
もしかしたら思春期で言いづらい事や、悩みをうちにひめている人がいるかもしれない。
僕はそうだった、だから皆がそうだとは言いません。
 
ただ、経験談で同じような境遇にある人がいたら届けたい言葉があるんです。
 
それが
『言葉のちから』
 
私はRAYさんと言うレゲエのミュージシャンが大好きです。個人的にですが。
でも歌にすると自然と歌詞につられて自分の思っていることを体現してくれているように感じたのです。
 
僕の話に戻りますが高校時代に演劇と出会い、大学までの6年間を演劇に投身してきました。何故なら、自分の気持ちをセリフに込めて発信できた時、心のわだかまりがスゥーっと弾いていったんです。
 
最近のドラマですが柴咲コウさんが主演の『35歳の少女』を観たときに似たようなシーンがあり、共感しました。親子喧嘩の場面で謝る際にニュースキャスターになりきり手紙を読むと言うシーンがありました。
 
伝え方は人それぞれですが、手紙でも、なりきりでも、有名なアニメの名言を引用しても良いのです。それが自分の気持ちに近いものだったら、他の人が使った言葉でも多用しても良いと思うのです。何故なら語彙力に乏しい学生の時期、僕は演劇から多くの語彙を学び様々な伝え方を学びました。
 
誰かが使っていた言葉でも、それが自分の意志に類似しているのならばドンドン使ってもいいのでは?と僕は考えます。ただし、自分で文章でも手紙でも相手に対して正直に思う気持ちを伝えることが大事だと感じるのです。
 
僕は『言葉のちから』を信じています。
力関係が故に発言しにくい立場の人もいるでしょう。
 
いじめの相手
親に対する意見
先生に対する疑問
上司に対する不満
 
上下関係や力関係が生じている場面では、発言もしにくいでしょう。
勇気も必要でしょう。
 
でも、そうした場面でもあなたを守ってくれる社会です。”ハラスメント”と言う言葉が現代では多く多用されていますね。良いんです!力関係が生じるのならば誰か、又は第三者機関に相談して、あなたの発言権を守ってくれます。
 
自分は弱い立場だから発言できない…
諦めないでください。疑問に感じたら現代はネットで様々な情報が収集できます。
そうした機関を後ろ盾にすることも悪いことではありません。
 
みんなに平等に与えられている発言の権利なんです。
言葉のちから、伝えられない時は何かに頼っても良きです。引用もありです。
 
気持ちを伝えられるのが、唯一は言葉なんです。
ジェスチャーや姿勢と言った方法もあるでしょう。どうか諦める前に、自分の気持ちを整理してください。最初は支離滅裂でも良いんです。ノートに書く、そして手紙に書く、カンペを作っても良きです。伝えることが大事だと思うのです。
 
何故なら、あなたの気持ちが伝えられるチャンスだから。
どうか諦めないで、自分は諦めていた時期がありましたが、後悔しました。
何故、あの時にこの気持ちを言葉で伝えられなかったのだろう…
 
後になって後悔するなら、今のご自身のお気持ちを尊重して欲しいのです。
もちろん、言葉はたまに刃となり相手を傷つけるリスクもあるでしょう。
 
言葉選びはとても慎重ですが、場面や年齢、立場に応じて必要な制限もありますが
先ずは伝えられない立場にある人に対して、僕は、いくらでも方法があるのだと今回のブログではお伝えしたかったということです。
 
発言できない立場でしたら、僕にでも、親い話せる人に相談することも有りです。
どうか、ご自身の中で抱え込まず、言の葉に載せて相手に言いたいことがあれば伝えられることを願っています。抱え込むのは辛いです。痛いほど経験してきました。引きこもりだった時に…伝えられない、ノートにも綴れない、そんな日々で気持ちはぐしゃぐしゃでした。でも、現代は助けてくれる第三者機関が必ずあります。このブログ然りです。
 
行動より言葉が強いと私は考えます。
何故なら、行動に起こして結果を出すには労力が必要だからです。
言葉にすることで、相手に伝わる可能性はとても高く早いと思うのです。
 
どうか、抱え込まないで
ご自分の意志、気持ちを尊重して、言葉にして観てはいかがでしょう。
環境が変わるかもしれません。変わらないかもしれないけど、伝えることによりあなたの意志は発信されるんです。それによりご自分の望む生き方の達成や環境を得るチャンスになるかもしれません。
 
言葉のちから
 
どうか、良き方向で使って頂きたいです。
 
 
髙橋直之

自分の弱さを認める勇気

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弱い僕がいるから、強くなろうと鼓舞できる。

「寒いね」と言えば、「寒いね」と…
俵万智さんの短歌が頭を過ぎる、季節は11月になり今朝は寒くそれでも、自分の側に誰かいると暖かく感じる。人と人との繋がりは大切だ。
 
でも僕はこう言うけれど、元々は人見知り且、対人恐怖症のような時期があった
「僕はプライドの塊だった」
 
小学生のある日、ケガをしてしまった僕は運動をやめた。
食べては寝て食べては寝て、体重はあっという間に100キロ越え
体格を揶揄されて、悔しくて喧嘩して言い返したら、その一部始終しか見ていなかった先生は僕を叱った。元々、友だちも多くは無かったし味方をしてくれる人は少なかった。
口べたで、ケンカも弱ければ、運動もできなくなり、なかなか落とせない体重。
次第に家に引きこもるようになっていったのもその頃かな。
 
一度、休んでしまうと学校へ通えなくなる。
時間が経てば経つほどに学校にも行きにくくなるんだよね。
だって、一度逃げてしまったら、「負け」を認めるようなもの。だから自分のプライドが人との接触を更に遠ざけていったんだ。
 
プライドなんてそんなもの!
 
今はプライドも何もないんだ。だってもう勝ち負けが人生じゃないし。
悔しいなら、負けるなら、自分が強くなるしかないと、気づいたきっかけがあった。
 
高校へ進学した時に自分よりも(比べるものではないけれど)苦労や辛い過去を持つ仲間と出会った。そして友だちになった。その当時まで持っていた勝ち負けやプライドと言うベクトルで関係を築こうとすると、友だちを否定することにもなるし、自分も否定することになると感じた。多感な時期に人との出会いは自分の考え方や捉え方を広げてくれた。
 
引きこもっていた自分の心が、その原因のプライドというものが薄れて行った。
 
何故なら、人の痛みを知り、挫折の経験はより人間を強くしてくれる。
挫折や失敗、その当時はとてもじゃないけれど、何度も逃げたくなった。
忘れよう、逃げよう、でも学校、社会でも残酷で挫折や失敗から直ぐに放たれることはなかった。だから、自分でどうにかしなきゃ、と
 
でも、高校生になって強みができたのは友だちが僕の救いになってくれたこと。
自分でどうにかしなきゃ、ではなくて相談することを覚えたんだ。
 
相談相手も大事で、自分が感じた失敗による喪失感や絶望的な気持ちを受け止めてくれる人。その当時、周囲にはそうした経験をしてきた仲間がたくさん居た。だから、初めてそれまでの体験してきたことを理解してくれる。受け止めてくれて、自然とプライドやコンプレックスが薄れていったんだ。うーん、気にしなくなった…が正しい表現に近いかも。
 
それからは正直になれた気がするんだ。
コンプレックスやプライドに囚われて、自信を無くすようなことが少なくなったんだ。
 
今振り返ると、自分で自分を追い込んでいたような感覚だった。
両親は、世間の目や、周りの子”ふつうの子”と比べて僕を叱咤することもあった。
それは両親だって、困ったと思う。どうしていいか分からなかったと思う。何故、周りの子と一緒にできないのかと、比べてしまうのは必然だと思う。だから攻めるつもりもないし、両親には申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
 
そんなことより、やはり自分のプライドが原因だった。
自分の心だ。周囲と比較して人生の勝ち負けにこだわり諦めていた自分の心が学校からも、社会からも自分の足を遠ざけた原因だと今だからこそ振り返れる。
もちろん、当時の幼い頃の自分にはそんな心の余裕もないし、原因は自分にあると悟った時も過去の自分を攻めるつもりはないよ。
だって、その当時、それが精一杯だったんだもの。だからこうして記事を何通も書けるのかもしれない。体験したからこそ、その人にしかその苦しみはわからないでしょう?
 
辛かったね。
頑張ったね。
 
そのような言葉をかけてもらうこともシンポジウムや講演会を行う中で講聴者から声をかけられることがある。もちろん共感してもらえたことは嬉しいけれど、僕が求めていることはこのブログでもそうだけれど、自分の過去の慰めではないの。
 
ブログを読んで頂いたり、シンポジウムの参加者の中には、似たような経験の渦中にいる人が中にはいらっしゃるの。その人にぜひ僕の失敗談をバネにして頂きたいです。
 
このブログのほとんどのエピソードは恥かしながら、失敗談だ。
でも過去の失敗が自分の今に活かされていることはたくさんあるんだ。
 
大人になってからやっと過去の自分を肯定できた。
だからこそ、恥ずかしいと感じたことでも記事に書けるんだよ。
 
だから自分で言うのもおかしいけれど、僕の心は鍛えられたよ。
ちょっとやそっとじゃへこたれない、ある意味の頑固者であるかもしれないね笑
 
でも学校や社会で挫折しただけ、糧になっていることは確かなんだ。
乗り越えれば、乗り越えるほど自分に真っ直ぐ向き合える。
 
僕は不器用な人間だ。
もっと効率的な学び方があるでしょう。
思われるかもしれない。でも失敗からしかまだ学べないのは僕の欠点であり強みだ。
一度失敗したら、2度目の失敗はしない。失敗しても失敗しなくなるまで何度でもやってみせる。
 
そのモチベーションの根っこにあるのが、過去の自分があるからなんだ。
今だって人見知りは正直変わらない、克服しようとしたけれど、バレないようにはなれたけれど未だに対人恐怖症はあるのかもしれない。でもいいじゃない、長い目でそんな弱い自分とも、一緒に上手く付き合っていこうと思う。
 
 
 
髙橋直之

可能性の芽を伸ばせ

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芽はやがて成長し幹となる。自分の芯になり得る可能性の芽だよ

僕は何度も失敗を重ねて、そこからしか学べなかった。
故に多くの人に迷惑をかけてきて、未だに堂々と人と接することができるかと言うと正直不安の連鎖だよ。
 
時間は不可逆で待ってくれない。身体は成長し、大人になっていく。精神的にはまだまだ未熟だしどこまで自分が、社会に貢献できるかも未だに手法すら見えていない。
 
でも、一つだけ変えたくない指針があるんだ。
迷惑をかけてきた分、人の役に経つにはどうしたらいいか。
誰かの支えになれる活動の一歩として、このブログを始めて自分の体験談を元に認めてきました。そこには偏りがあるでしょう。だって僕の経験だけだもの。もちろん、他の人からのアドバイスも織り交ぜているけれども、最終的に執筆するのが僕だから。
 
正直、毎回、配信して良い内容であるのか不安だ。そして恥ずかしい。
過去の経験を世間に暴露するようなものだもの。SNSとも連携し、実名を公表している。
それ故にここでの発言には、責任を伴う訳で、嘘はかけない。
 
だからこそ、生の
生々しいような過去を事実として、書き続けているんだ。
背水の陣とまではいかないけれど、今までの経験から、仕事にも支障が出たこともある。
全く知らない誰かが、自分が精神障害者であることを知られる、不安な気持ち。
 
でも、だからなんだ!保身じゃないか。
もしも、このブログを続けるならばできる限りリアルな体験談を書きたい。
その一心で90もの記事を書き上げてきた。
 
節目である故、今日はちょっと心にしまっていたことを告白しようと思います。
 
それは、高校生までずっと親にも友だちにも、学校の先生にも仮病を使って学校へ行かなかった、行けなかったと言う事実があることです。
 
仮病を使った理由は学校へ行くと、どうしても自分が浮いてしまい。
省かれているような、露骨にいじめのような体験を受けて僕は逃げる方法を模索していました。そこで浮かんだのが仮病だったんだ。同窓会で二十歳になった時に担任だった先生に再開した。その時、「休んだ理由は本当はなんだったの?」と訊かれ仮病である事実を伝えた。その時先生は、寂しいような、悔しいような表情を浮かべていたのが今でも心に過るの。
 
何故、自分は虐められている事実を
学校へ行きたくないと言う気持ちを両親や先生に正直に伝えられなかったのか。
 
プライドだった。
 
多感な時期である。そして成長の真っ只中である中、成績、身体能力、全てが数値化されて評価をもらうのが怖かった。だって休んでいる以上、オール1だもの。
僕の場合、言いたくても言えない、助けを求めたい、そうした気持ちではなくて、周囲から比べて自分が劣っていることを突きつけられプライドを傷つけられるのが怖かったんだ。
 
そして、僕は中学生時代は部屋に篭る日々が続いたの。
現実逃避をする為に、本を読んだ。ゲームもした。でもちっとも楽しくなかった。
罪悪感と将来の不安に駆られながら僕はその当時を過ごしていたんだ。
 
本当の自分の気持ちをカミングアウトするのは大変だった。
僕の場合プライドだけれど、中にはコンプレックスの塊や、傷ついた心を癒す為に心を閉してしまう人もいると思うの。だから、理由は本当に人それぞれで不登校の課題を解決するには難しい。現場の教員も多くのタスクを抱えて教育現場は疲弊している。
 
その中で、どうやって心の扉を開くの?
僕は開けなかった。解決策として、本人が胸の内を打ち明けることが1番の近道だと思うの。近年はフリースクールやデイサービスといった、ケアサービスが増加傾向にある。
 
そこでね、これを読んでいる学生や社会人の方に向けて伝えたいメッセージがあるの。
僕は後悔したことなんだけれど、何故、もっと早く両親に胸のうちを伝えられなかったのだろうか。先生に相談できなかったのだろうか。理由は明白だ。プライドが邪魔をした。負けず嫌いなのは今も昔も変わらないけれど、弱みを見せる勇気が当時はなかったんだ。
 
そう自分の弱みを晒すのはとても勇気がいることだと思うの。
でもね、死ぬ勇気があるのならば、弱みを晒す勇気は十分あるよ。
将来も広がるしね。
 
何度も死のうとした。建物の屋上に立っては足がすくんで飛び降りれなかった。
 
そもそも死ぬ勇気ってなんだ、死ぬ勇気があるのならば、なんでもできる気がするの。
だって命を絶つか絶たないか。とてもじゃないけれど、そこまで追い詰めている人がいるのならば他意はなく純粋な気持ちで抱きしめたい。
 
あなたは1人じゃないんだよ。
だって周りには家族がいるじゃない。
家庭の事情で、そうじゃなくても行政で相談にのってくれる期間もある。
僕が学生だった15年前に比べて今はとても、ケアサービスが充実しているように感じる。
 
学校や会社が全てじゃない。
そもそも、この世界に、産み落とされたこの命を、奇跡だと思うの。
生きていれば、友だちとの出逢い、将来を共にするパートナーが今もどこかで生活している。いつ、どこで出逢うのかは分からないけれど僕はそんな奇跡的な将来に希望を抱いて欲しいの。
 
そして、学校や会社が全てではないと書いた理由は。
そもそも人生の大半は勉強する、働く、食事して寝る。のサイクルだ。
でも、勉強が合わない。仕事に恵まれない人も少なからずいると思うんだ。
僕は勉強が嫌いだった。仕事もちょっと嫌かな。
 
そんな時に考えるのは僕の人生、嫌な環境で嫌なことを強いられる場所で生きていくのはどうなのか。ある程度の教養は必要で、資本主義社会ではどうしても稼ぎが必要だ。
でも、苦手は苦手で吐露して良きと思うの。そうしたら、これからは令和の時代。
 
良い大学に出て大手に就職すれば安泰なんて社会的風習は薄れつつあるの。
じゃあ、今後は何が評価されるの。多分だけど。「あなた自身の個性」だと僕は確信しているの。趣味や好きなことが仕事になることもあるこのご時世だもの。
 
あなたは何をしたいの?
できないことはもう考えなくていいからさ。
 
苦手なことは苦手で、得意なものは得意なものであるんじゃないかな。
そこにフォーカスして伸ばす、伸ばせる環境を作って頂きたいのです。
 
悲観するよりも、できることから始めてみたらどうかな。
ゼロはゼロのまま。1に変える為には何が必要かと考えたら、自分の好きなことや特技を極限まで鍛え、追求すると良きではないでしょうか。
 
 
 
ちょっとずつ、そしたらワクワクしませんか。
行きたくないなら行かなくていい。でも自分の芽を探してみて。小さいことで良いの。
僕の場合、地図を見ると一瞬で方向が分かり、案内できた。そこから大学生になってツアーや旅行企画に興味を持って、未だにボランティアではあるけれどその活動を続けていて、生き甲斐の一つになっているんだ。
 
仕事や勉強だけが人生じゃないよ。
あなたらしさ、その芽を育み育てる意識を持ってみてはいかがですか。
 
髙橋直之

主語は「私」、少しわがままだと思われるくらいが丁度良き

こんにちは、たっきーです。
最近、DIYにハマっているんですよ。仕事や記事を書く合間に家で過ごす時間を豊かにするためにちょっとずつ家に手を加えています。
 
「好きこそものの上手なれ」
僕は仮想空間で仕事をするよりもリアルな達成感と、満足感が自分のモチベーションになっているのかな?と思うこの頃です。エンジニア家業も中々辞められないのは現実ですが、僕はいずれかはシフトしていきたいと感じています。
 
最近、考えることがあるんですよね。
 
「幸せ」てなんだろう?と

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立ち止まった瞬間に考える。時間が環境が私を私らしさから忘れさせるような。感覚。
己の心が満たされた時に、幸せを感じるのか…
他人の吉報を聴いて幸せと感じるのか…
 
どちらも嬉しいけれど、正直僕は己の心が満たされることで幸せを感じる。
極論はそう思う。僕の場合はね。
公言することではないけれど、あえて言うならば結局、自分が大切であるもの。
 
だって、そうしないと”結果的"に心が満たされないじゃない?
誤解しないでほしいのは”結果的"にと言うこと。
 
結果を出すためには、必ず過程があるものです。
その過程の段階に自分は今居るのだなと、思うんです。
だから悩む、苦しむ、迷う、未だに社会人として曖昧なビジョンで生きている。
 
何故?
 
「幸せ」の意味に最近迷うし
僕は、1人ではない、親もいるし婚約者もいる。
この1年間で僕の人間関係は大きく変化したんだ。その前まではとにかく、借金を返済するのに精一杯で仕事に夢中する日々だった。ただそれが、目の前の課題を打開するために走り続けるしかなかった。
 
でも、その課題が無くなった瞬間に
モチベーションを失うと共に自由を得た。仕事に追われる日々から解放されて、次のステージを考える余裕ができたからだ。それが「幸せになりたい」と、言う感情。
 
ただ、ひたすら仕事、
そんな中で、僕の人間関係は、振り返れば仕事9割、プライベートが1割だったように感じる。だからと言って人間関係を全く蔑ろにしていた、とまでは言いたくないけれど、それは言い訳になるのでここまで…
 
最近は余裕ができた、少しずつ、仲間とコミュニケーションをとる時間を大切に思えた、家族や友人、恋人然り。でもそれは自分のエゴイズムでもあるの、仕事が理由でとか、障がいが理由で、とか遠ざけていた人間関係。そりゃ友だちも失えば、大切なヒトですら失うことになる。今更、後悔…どころか相手にとっては「なんだコイツ!」と思われて仕方ない。だから反省…?
 
はしたくないです。
寧ろ開き直っています。だって、そうする余裕と、心の許容範囲が無かった。
とても未熟な人間だった。と認めて、その時、僕は、そうするしかなかったんだ。
と、過去を振り返る。いや、開き直る。
 
以前のブログにも書いたけれど、反省は一度でいいと思うの。
だって、過去を反省して、将来に活かすのは良いけれど、反省しまくって次の行動に移せるモチベーションて持てるの?僕は持てないし、寧ろ自分をいじめる行為だと思う。
 
ならば、キッパリと目の前に広がる世界を見るしかないじゃない。
そこで一番大事なのは、常に主語は「私」であること
 
誰かに言われたから、誰かがこうしていたから
そんな考えでは少なくとも、僕は生きてこなかった。良くも悪くも全て自分が主語で、そうすることで自分の責任で人生の舵を切ってきたのだ。
 
でも、大した現在ではない。
寧ろ失敗だらけ、と言うか、未だに選択に悩み、苦しんでいる。
自分が拗らせ系キャラなのか?否定はできないけれど、敢えて否定しないのはそれも僕が選択した道で、今、その途中にいるから。
 
目的地?
課題を乗り越えるごとにそれは変わる。
そして今、ようやく、自分の人生を豊かに生きるにはどうしたらいいのか。
それはやはり、「幸せになりたい」「幸せにしたい人もいる」
 
心に余裕が生まれたことでステージは変わり、そしてまた新しい悩みを持つ。
選択の連続だよね。そこでやっぱり曲げたくないのは、「私」が常に主語であること。
誰かの責任にしたら、理想的な生き方に到達できないと思うんだよね。
それと、若しくは「私」が主語にならざるを得ない環境もあるの。自分本位に動いているように周りから見られる。でもいいじゃない?
 
僕はそう思う。周りは周りでしょう?
自分本位で捕らえられても、その時はそうせざるを得ない理由があるのかもしれない。
若しくは、自分の目標に達成するためにはある程度の利己的な思考も必要だと思うの。
 
優しい人ほど遠慮する。
遠慮する人ほど、損をする。
損をするほど、幸福感は減っていく。
献身的という言葉もあるけれど、でも献身はやめた方が良い。
何故なら、献身する相手がいるでしょう?何かうまくいかない時に相手の責任にスライドしてしまう。それこそが結果的に醜いし、不幸になる生き方だなと僕は思うの。
 
できるのならば、遠慮は程々に
遠慮なんてしなくて良き。空気を読めとか言われても、空気を作れるヤツが一番強いじゃん。だって周りが空気を読む文化なんだもん。僕が!!私が!!!こう思う!!!!
 
もちろんそれ相応の理由付け、論理的な考え方が求められるかもしれない。
でも、いいじゃない。そんな面倒なことを考えたって仕方ない。理由はただ一つ「私がその道を選んだから」でも、その代わり、責任は自分で負わなきゃいけないですよ。
 
でも、自由なんだよね。そう思考を変化させた時に
離れていく人や、そりの合わない人も主張すればするほど現れる。
でも、自分が思うことがあるのならば良識の範囲内で実行して良きだと思うんだよね。
そしたら、誰の責任でもない。自分の責任にすべてなるけれど、それだけ、選択の自由が選べると、そう感じたんだ。
 
でも、これは飽くまで個別の考え方で
未だに悪しき風習と言っていいのか、どうか、日本の組織社会では別問題。
「長い尾には巻かれろ」それが時に自分の出世や成績の為にはなるでしょう…
でもね、学校組織、社会組織、今の風習が崩れるのはもう目の前だと思うんだ。
 
その時に求められるのが、自分らしさ(オリジナリティ)
それを養う為には、主語を常に「私」として、責任を背負うだけ自由を得たら良きと思う。それが今後、社会的には求められる個人の在り方だと思うんだよね。
注意されたら、直ぐに謝るんじゃなくて自分の意図を伝えられるくらいの気持ちを持てたら理想だよね。どうしても、日本の社会は個性を嫌う性格がまだまだ多数派。
でも、将来を考えてみようよ。個性は個性として、評価される時代がもうすぐ側に来ている気がするんだ。だって某動画サイトで稼ぐ人もいれば、投資で稼ぐ人もいる。
個性派揃いだよね。でも、それが面白いって現在も評価されているから、それが仕事として成り立っちゃうんだよね。僕にはそこまでは突出できる勇気はないけれど。
 
でも、僕は僕が思う幸福を掴みたい。
その過程には、方法論として様々な選択肢がある。
時に、他人の幸せを優先する時もあるかもしれない。でもその先には自分の幸せがあると狙ってのお話でありまして、献身ではないよ。
 
それに近い有名な言葉があるじゃない
「情けは人の為ならず」
 
自分のためにかけるものであると昔の人も言うんだから。
目先の利益だけで動け!と言うメッセージではないんだよ。
優しい人でいいじゃない。でもただ優しいだけじゃダメだよ。って話。
 
人生の主人公は読者様、それぞれなんだから
主語に「私」を使わないのはもったいない気がするな。
 
髙橋直之

経験したヒトは強いよ、乗り越えたあなたはもっと強いよ

 
こんにちは、たっきーです。
今日は雨ですね。でも、最近晴れの日が続いていたから、たまには雨の音を聴きながら仕事をするのもいいものですね。
 
今回は、ちょっと仕事のスキマ時間に思い立ったことがあったので記事を書きます。
、と言うのも「経験は一生の財産だよね」と言う会話を仕事仲間と話していたのです。
 
もちろん仕事上の話だけれど、
でも、昨日書いた少しシビアな内容のブログ
 
そう言えば、昔ね、学生時代の頃に理解されなくてひとりぼっちでも
生きてきた自分の経験も、一つの財産だよね。と思ったのです。
実際はひとりぼっちじゃなかった。親に本音をぶちまけた、ぶちまけるまでがとてもね勇気がいったし、そう簡単なものではなかったよ。でも、そうして親と衝突して、実は親も悩んでいたことを知り、互いを理解できる一歩になったことは事実。
 
そしてこうした経験を書けるのは、やはり経験したからだと思うんだ。
時にね、自分がそうでなければ迷惑をかけずに済んだのかもしれない人も居たような…
っと考える節があります。でも、最近はそれは考えないようにしました。
 
逆に過去に迷惑をかけただけ今の自分にできることをしようと考えたんだ。
それがおよそ1年前にこのブログをenokiと立ち上げたきっかけではあったの。
 
僕は人生のまだ4分の1も生きていないのかな?
人生100年時代とか言われているものね。だから僕の文章が全てではなく偏りもあり、中には受け入れ難い文章もあると思うんです。それはだって、僕の考えは全て正しくないし、色々な考え方があって当然だと思うの。
 
でもここには直向きに文章を綴っています。
ある意味、僕と言う偏って見られてもいいし、それでも失敗談や経験談など
もしもそれを読んでヒントにしてもらえる人が読者様の中におられたらいいなと思うの
 
経験を無駄にしたくないと考えた時に思いついたのが、体験談の共有でした。
その一歩目がこのブログであり、自由にコメントもしていいし、飽くまで経験上からでしか相談にはのれないかもしれないけれどそう言う場所であるようにしてきました。
 
過去の辛い経験…
僕はそれをバネにして、自分の翼に変えて、どこまでも遠く、強く生きている。
 
今、辛い経験や孤独を感じている人がいるのならば
僕はできる限りその人の話を聴き、寄り添いたい。それが過去に迷惑をかけた人々への贖罪なのかもしれないけれど、でも前向きに考えたいな。経験を活かしたいの。
 
いっときは、仕事にもしようと考えたよ
でも、仕事だとどうしても潤な気持ちでブログを書けないと思うの。
お話も聴けないような気がした。だから自分の空き時間にこうしてブログにして共有しているんだ。
 
辛い思い、悲しい思い、孤独感、理解されない悔しさ
 
皆さんの声もどうか聴かせてくださいね。時間がかかってでも一つ一つご返信致します。
ただ、予め伝えたいアンサーは表題の通り「経験したあなたは強いよ」「経験しているあなたは強いよ」なぜ?
 
だって、そこに苦労していない人間よりあなたは人にきっと優しくもなれるし厳しくもなれると思うの。決して無駄じゃないんだよ。人の弱さを知ることはとても大事なの。だってその分優しい人間になれるっしょ?
 
きっと、今は悩んでいるかもしれない、辛いのだったら
その気持ち、忘れないであげて、あなたの一部だし、考え方なの。
いつしか、社会に出た時にきっと人として大切な一面をたくさん持てていると思うんだ。
 
学歴や会社で判断される時代じゃ、なくなってきている。
仕事をしながらそう感じるんだ。
 
求められるのは人間性
個性の豊かさ。
 
これからは個の時代なんだ。
サラリーマンなんてもう死語だよ。学校に行って良い大学に出れば将来安泰なんて時代はもう終わりかけているんだ。これからは各々の人間性や経験が評価される時代だ。
 
そうなった時に、今は苦しんでいても
 

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将来を考えたら明るいように思えませんか
孤独を経験したものは、真の意味で孤独を友にできる
虐められた経験は、人の痛みのわかる人間になれる
悲しさや悔しさを感じた人は、人の心に寄り添える人間になれる
 
素敵じゃない?
もちろん現在そうならば他人事に聞こえるかも知れない
でも、僕は今悔しさと悲しさと理解されないもどかしさを感じながら未だに生きているんだ。
 
具体的には次回のブログに綴ろうかな。長くなりそうだもん。
ブログの読者さんから、1記事につき文章が長すぎる!!て言われちゃった笑
 
だから今日はとりあえず、ここまで
いつも読んでくださる皆さまありがとうございます。
そして、悩みを抱えている人がいるのならば一緒に前へ歩いていきましょう。
 
髙橋直之

ひとりぼっちじゃないと言うけれど…

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孤独…寂しい…でも正直なあなたの心のサインだよ
こんにちは、たっきーです。
季節の変わり目は、温度変化がとても激しいですね。
先日、風邪をひきました。咳とくしゃみが止まらなくて、
マスクをしていても、街ゆく人は僕を避けて歩いていたように感じます。
 
風邪にしろコロナにしろ移されたら嫌ですものね。
 
僕は一人、その時は家族にも移したくないと部屋に篭り、病院以外は外出しませんでした。仕事はPCがあればなんとかなる。なんとかそこは繋ぎましたが、どことなく感じる孤独感に苛まれました。
 
ふと、その時に頭をよぎった言葉があるのです。
『孤独を友とせよ』
 
この言葉は頑張る時や、何か目標に挑むときに孤独というものはつきものです。
もちろん仕事やスポーツはチームでこなすものですが、個人の能力を高める為には人は自主トレしたり、一人で残業していたり、孤独は避けられないものです。
だから、強くなる為には、『孤独を友とせよ』という言葉が生まれたのだと思います。
 
でも、『孤独を友とせよ』という言葉には主語が隠れており
「”自ら”孤独を友とせよ」という事であると僕は捉えています。
つまり能動的に行う事。自らの選択肢の一つとして選ぶ手法であると僕は思うのです。
 
でも、孤独な状態に迫られている人もいます。
それが僕です。風邪を引いた、家族にうつせない、だから部屋に篭る選択肢を選ばざるを得ない。身体的な理由で孤独に晒される現実もあるのです。
 
今までのブログにも書いて来ましたが、私は自閉症スペクトラム症の中でもADHD、注意欠陥多動性の傾向が大きいと診断されました。
知るまでは、人間関係の構築に何度も苦労したことも、孤独を感じたことがあります。
 
先ほど、風邪を例に挙げましたが、精神的な部分は目に見えません。
そうした状況下にある人々は孤独感というものを一度は体験したことがあるのではないでしょうか。
 
僕は小学校と中学校と不登校で誰にも理解されず、親にも理解されず
ただひたすら自分の責任である。それは否定できないのだけれど、その当時はそれが故に孤独と寂しさに苛まれて生きた過去があります。孤独感から自殺願望すら抱いた時もありました。
 
「だって、こんな話誰も理解してくれないもん!」
「学校に行きたくない!勉強が苦手だ、でもそれが理由に行きたくないなんて!」
 
絶対に理解されないんだから
 
そう思って、独りぼっち部屋に籠もっていました。
先日、風邪を引いた時に過去の自分の体験を思い出しました。
 
悩みを話せず、理解されないとわかっていればいるほど、話しにくいもの
 
「ひとりぼっちじゃない」
そういう言葉をよく耳にした、本でも読んだし、歌の歌詞にもあった。
でも、僕は学生の時、孤独から抜け出せずに悩んだ過去があったんだ。
 
そもそも、誰に相談すればいいの?
みんな聴く耳を傾けてくれなかった…
「学校へ行くことは当たり前でしょ」それが子どもの役目
そう言われてしまうのがオチで、将来も悲観するようになっていた自分がいた。
 
そんな僕が手を出したのは行政が運営する、心の窓口だった
帰って来た言葉は、そうだ「あなたはひとりぼっちじゃないよ、安心して」
 
言うは易し、自分の境遇には全く触れてもらえなかった。
10年以上前の話だから今は対応が違うのかな?
 
でも僕は絶望した。、だって電話をかけるにも勇気が必要だった。
しかし返された言葉はその一言だった。
 
頭の中は真っ白で、世界にポツンと部屋に時間が止まったまま取り残されたような気がした。僕に将来はないのか、それならば一層、生きる意味などないのか。生きている価値はないのか。両親は毎日、僕のことで言い争い、熱りが冷めたと思ったら学校へ行けと言いに来る。「嫌だ」そう言いたいけれど言えない自分と、言いたい自分で夜は眠れずに葛藤していた。思い出せば、過去のこと…
 
でも、それを身に染みて体験して来た僕が言えること
 
”孤独はつらいよ”
 
ひとりぼっちじゃないと言うけれど、でもひとりぼっちになっちゃうんだもん。
マイノリティであればあるほど、日本は個人の考えを尊重する文化はまだ浸透していないんだもの。でも文化のせいなのか、そうしたら楽だけど解決には至らない。
 
だからこそ僕はこのブログを書いているの
もしも、今、孤独に、苛まれている人がいたら、
その人がこのブログを読んでいたらSOSを挙げて欲しいの。
 
大人になった今だから発信できる
それに、様々な対処法を僕は知っている。
 
対処法?
 
もう、自分の胸の内をぶちまける
それが一番いいの。理解されなくてもいい。でも自分の思いをぶちまけるだけで僕は心が少し楽になったんだ。両親の対応も少しずつ変わっていった…
 
もちろん勇気がいる
僕は恥ずかしながら泣きじゃくりながら両親にぶちまけた
これはただ事じゃないと察したのか、僕を落ち着かせなだめてくれた。
 
恥ずかしい、悔しい、自分が嫌い、でも、それが自分なんだもの
だから、ぶちまけたの、心のダムが崩壊しきっていたのもあるけれどね。
 
でも、その後に分かったの
”僕はひとりぼっちじゃない”
何故なら両親も悩んでいたことを僕は知ったんだ。
 
つまり、本音を話すことで繋がれる
仲間ができるんだ。
 
でも、本音を話すことは怖いし、社会人になればなおさら悩むの
 
でも、生きて
 
生きていれば、いつか仲間ができるから
一人じゃなくなるから。
 
将来?僕もわからない。
フリーランスで働いているけれど、そんなんで一生食べていけるなんて分からない。
こんな時代だけれど僕は思うことはただ一つ。
 
心のダムが崩壊してもいい、醜い自分でもいい
本音をぶつけることが孤独を抜けられる、一歩だと思うの。
恥ずかしいし、醜い自分かもしれない、でも受け入れてもらえたら楽っしょ!
 
僕はそう醜い姿も晒して、恥ずかしさも晒した、
でも、それでもそばにいてくれる人こそ本当の仲ではないのかな。
 
髙橋直之