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不登校経験を経て社会人となったやつらの発信活動

溢れ出た考えを考察してみる①”不登校の意味とは“

最近は益々、肌寒くなってきましたね。

周りでは風邪をひいている人も多いので、

体調管理には気をつけてくださいね。

 

さて、

 

このブログを立ち上げる少し前くらいから、

個人的に不登校経験者としてTwitterアカウントを立ち上げました。

 

 

今回はそこに呟いた内容をテーマに記事を書くという試みをしてみたいと思います。

 

今回のテーマは下記のツイートです。

 

 

不登校が自分にとって何だったのかと最初に問いを投げかけられたのは、

中学校を卒業する頃、相談学級で書く卒業作文だったと思います。

 

先生にテーマとして与えられたのか、私自身で考えだしたのか覚えていませんけれど。

 

いま手元にその作文がないので正確な内容は覚えていませんが、

当時の私は下記のように書いたような気がします。

 

“僕は中学生活を経て成長した。しかし、自分が不登校だったという事実はきっとこれからもずっと僕の心の中に残るだろう。それでも僕は虚無感を片手に我を行く“

 

ちょっと小恥ずかしいですが、思春期真っ盛りの主張なので見逃してください笑

 

あの時、私は相談学級で様々な事情を抱えながらも精一杯に生きているみんなと出逢いました。そして先生の指導もあって演劇に挑戦して、自己表現や多勢の前に立ってパフォーマンスする事の楽しさや難しさを学びました。

 

それら全てが、それまでの私にはなかったもので、確実にそれからの私を形作った大切な経験でした。


今の私は勿論、卒業を控えた中学三年生の私もそう感じていました。

 

成長しているという自負がありました。

だから、当時の私にとって不登校は意味のある経験でした。

 

少なくとも無意味ではないし、タイムロスでもない。

 

しかし、それでも不登校という経験は決して自分の中から消える事はないだろうと予感していました。

 

何事もなく過ごしていたら存在していたみんなと同じ普通の中学校生活を送った自分はもういないという虚無感はずっと残り続けるのだと。

 

最近、思うのは子どもの時の方がずっと自分という存在や他者という存在に対して、まじめに真摯に誠実に捉えていたということです。

 

大人になっていくにつれて、良くも悪くも賢くなって、そんな疲れる事はしないようになっていきました。自分と他人は違って当たり前ですし、なぜ違うのかとかそんな事はどんなに考えたって納得できる1つの答えなんてないと知ったからです。

 

その事実に無理やり自分を納得させて、考えなくなりました。

 

考えたって無駄だと決めて思考停止してしまう。

 

良くも悪くも、当時の私は真っ直ぐに物事を見つめたが故に、

相手が何故同じように真っ直ぐ見つめないのか理解出来ず、

余計に悩んでいたのだと思います。

 

最近、毎日数十件のお客さんと対話をしているコールセンターという場所で、活躍する無数のオペレーターさんとお客さんとのやりとりをまとめた本を読んでいます。

 

その中で、こんな一文があります。

 

“自分の考えや思いは、こちらが本当に受け取ってほしい形や温度で相手に伝わる事なんか、まずない。この世界に入って八年目、そんなことを強く感じる。(中略)自分が言葉と言うボールをどう投げるか、そして、それを相手がどう受け取るか。それによってすべてが変わる“

 

これを見て、「そんなの当たり前じゃん!」と突っ込まれるかもしれませんが、

対話のプロが8年目の今でもその当たり前を強く感じているのです。

 

彼らは対話が、円滑なコミュニケーションが仕事の1つです。

だから、対話を真摯に誠実に取り組んでいます。

それはとても難しい事です。

 

当たり前とみんなが思う事が、意外と難しいんだろうと思います。

 

自分がどんなに綺麗なフォームで言葉を投げても、相手が準備する前に投げたら相手は素手でとって、怪我をしてしまうかもしれません。

 

的外れなところに投げて、相手が無理な姿勢でとって投げ返してくれても、きっとまた的外れな場所に来て、こちらも変な姿勢で受け取って…。

 

自分が綺麗な球を投げても、相手が受け取ってくれるとは限らない。

それは自分の独りよがりなのか、相手が意図してやっているのか。

 

どうしてもキャッチボールがしたいなら、投げ方を工夫したり相手の準備ができるまで待つことも出来ます。相手がそもそもキャッチボールする気がないのなら、どんなに努力しても難しいでしょう。

 

では、現在の私とって不登校とは?

 

振り返ってみても、やっぱり不登校で得た経験というのは、無駄ではないし、今の私が私である為の重要な要素です。

 

不登校を経験したが故に出会えた友達や恩師や大切な人がいます。

 

経験しなかったらきっと別の出会いがあったのだと思います。


しかし、自分からみても今の私は嫌いだけではないのです。嫌いなところは沢山ありますけど。見捨てる事は出来ない。

 

結構、失敗もしますし、迷惑もかけてますし、クズなところもたくさんあります。

それでも、それが自分らしいなと感じています。

 

ただ、やっぱり胸の奥にポッカリと小さな穴が空いている気はします。

それはいつか埋まるような気もするし、埋まらないような気もします。

 

きっとこれからも付き合っていくんでしょう。

 

でも、当時の私と同じようにそれに対して嫌悪感はありません。

それも含めて自分なのだと思えるからです。

 

そう思えるのは今が割と恵まれているからかもしれません。

もし不幸のどん底に落ちたら、過去を呪うかもしれません。

 

恐怖心もあります。トラウマもあります。

コミュニケーションに対する苦手意識もたまに噴出します。

 

しかし、きっと死ぬときには同じだと思うのです。

 

ああ、これが自分の生き方だったんだと。

きっと過去に戻ってもどこかで同じような選択をしたのだろうと。

どこかで挫折を経験したのだろうと。

 

それが私にとっては不登校というものだった。

 

もちろん、不登校をただの挫折とくくってしまうのは、違うと思います。ただ、今の私にとって、私の不登校はそうだったと思えるだけです。

 

経験者それぞれにとって、自身の不登校の意味合いはたぶん異なるだろうと思います。

 

 

こう思えている事が答えではないかなと思います。

 

だったら、最初からこれを出せよという話ですけど笑

記事を書かないとタッキーに怒られるので…

 

以上、長々と3000文字近く書いてきました。

 

 最近、ある人に人に寄り添う資格はない!と怒られて、確かに私はそういう事が苦手になってしまったような気がしています。

 

当事者にとって、私がこの辛い経験を過去に感じているように伝わっているのかもしれません。ただ単に、私が真面目系クズというのもあるかもしれませんが笑

 

ただ、私が言えるのは死にたいと思うほどに辛い今でも、時間は過ぎ去っていきます。無情にも幸運にも時間は待ってくれません。

 

大切なのは、その間をどう生きるかです。

 

問題解決に充てるもよし、逃避するもよし、何か有意義な活動や学びに充てるもよし。

 

学校や常識という枠を外れる事は、恐ろしいです。

不登校はその間にある状態だと個人的に思います。

 

でも、何をするにせよ、一歩だけ踏み出してみると世界が変わって見えたりします。

 

まあ不登校真っ只中の自分だったら、

こんなふうに考えられなかったと思います。

難しいのは重々承知の上で、もし出来るなら不登校という時間を、大切にしてほしいです。


enoki