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不登校経験を経て社会人となったやつらの発信活動

学校に対する違和感

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本当に学校は必要なのか?
不登校」て響き
なんか僕はあんまり好きではありません。
 
「負登校」なんだか負の要素を感じさせるからです。
学校て本当に必要なの?義務教育に対する挑戦的な発言ですが…
 
僕は小学校と中学校と、ろくに学校に通ってませんでした。
でも、今は大人になって家族を支える立場にあります。義務教育?
僕はその義務教育を全て受けてきたかというと、そうではない「不登校」の時期を経て
高校も通信制の学校を卒業し、4年生大学を卒業し世に言う大手の会社に就職することができました。そこまでに至るには先生や親、友人の支援が必要だったと思うけれど義務教育の必要性が本当にあったかと言うと、とても疑問です。
 
義務?寧ろ義務という響きが私を僕を苦しめていたんだ。
学校へ、なんで行かないの?部活へなんで参加しないの?世の中でいう当たり前、それに対して僕は理不尽さを感じていたんだ。寧ろなんで学校へ行かなきゃ行けないの?
そんな疑問を当時抱いていた。返ってくる言葉は進学のため、将来のため、僕はその言葉に飽き飽きしていた。また、それか。
 
事実です。僕は大手と言われる企業に就職もしたし、4年生大学も卒業しました。
 
それが僕の能力、の一言で片付けられるのはあまりにも悲しい。
だって、会社に就職できたのも、4年生大学を卒業できたのも周囲の支えがあったからだ。でも支えとは何か?「学校に行けっ!!!!」そんな言葉ではない。
僕の考え方を否定せずに、尊重してくれて、且つ自己表現をする大切さを教えてくれた周囲(主に友だち)の存在だ。僕はブログにも書いてきたが演劇という手段で自分の抱え込んできた「思い」「苦しみ」をセリフにして発してきた。初めて自分の思いに正直になれた瞬間がその中にはあったんだ。それによって僕は僕という自我を確立していくことができた過程を今も忘れずにいるよ。
 
とても恵まれていたと思う『演劇』という自己表現の場を与えてくれた友だち、主にenokiには感謝したいと今も思っているんだ。その中で、僕はこうであっていいんだ。自然であっていいんだ。自己肯定感を支えてくれる瞬間でもあったんだ。僕には欠かせない瞬間だったことは言うまでもない。
 
もちろん最初は自分自身を出していくことはとても恥ずかしかったし、遠慮もあった。
本当に受け入れてもらえるのか、僕のこの気持ちを誰かが共感してくれるのか、共感まではいかずに寧ろ否定されてしまうのではないかと僕は最初は怖かった。
 
でもさ、一歩踏み出すことで、その恐怖心も少しずつだけど薄らいでいったんだよ
僕は僕の考え方で合っていいんだ。
 
否定されても、それは個人差として受け止められたんだ。
あなたにはあなたの考えがあって私には私の考え方がある、自我の確立だ。
 
どうしても僕は今の教育には納得のできないところがたくさんあるんだ。集団行動の遵守、元々は富国強兵により軍事的な背景によって作り為された教育方針に違和感を感じずにはいられなかったんだ。皆同じ動きをして、皆同じ答えを求めて、整列を求められるときなんて、反吐が出る程の違和感を感じた。「なんで自分がこんなことせんといかんの!!」
日本には徴兵制が無いが、義務教育が徴兵制に類似しているのでは無いかと感じる時もあった。特に運動会で強いられる集団行動とかは良い例えでしょう?
 
僕はそこに馴染めなかった。
馴染まなかったが故に一人孤立していったんだ。そして、いじめの対象になった。
 
皆が当たり前にできることを何故できない?
僕は何故その集団行動をする必要があるのか理解し難かった、そして悪として扱われた。それが現実だ。馴染めないことが悪いこととされた。
 
とても難しいよね。
社会人になって僕は気がついたんだ。社会人になって会社にもよるけれど、周囲にいかに組織の一人として加わることができるのだろうか、もちろん、馴染めなければ会社には居られない、居場所をなくしていってしまうんだ。
 
大人に必要とされる能力を日本の学校教育で育もうとしているのか……
いいや僕はやっぱり納得できないな。
 
僕がある会社を受けた時に発言した言葉があるんだ。とても行きたかったけど落ちちゃったけれどね。そこは海外の教育や食育等に力を入れる教育機関で自発的な子どもを育んで行こうとする場所だった。
 
「今の世代の子どもたちが変化していったら、社会も変わります。最近、近所の公園で走りまわる子どもの姿を見かけなくなりました。僕が小さい頃には5時に鳴るお寺の鐘の音が鳴るまで外で駆けずり廻っていた。でも最近はそれがない。子どもたちはどこへ行ってしまったのか、やはり家の中なのか。僕は自発的な子どもが増えて行けば、学校の教育も変わると思うんです。海外の学校ではみんなが手をあげるけれど日本の学校では周りの空気を読みながら粛々として手を挙げる子どもが多い。自発的な子ども増えて行けば教育環境も変化する。教育機関が変化すれば社会も変化していく。」
 
つまりね。集団行動も大事だけど
その中で多様性を認めていけるような子どもが増えていくことで20年先、30年先の社会は大きく価値観が変わってくると思うの。「先見の目だ」学校に対する違和感はある。けれど、現代社会に求められる教育機関として今は現状維持が現場は精一杯だと思うの。
 
でも、子どもが変化していけば、教育の方法も変わっていくよね。
何も運動会を行進で始めなくても、わぁぁぁぁ!!って一斉に駆け出して初めてもいいと思うんよね。整列の必要はありますか?開始の挨拶は必要ですか?…開始の挨拶は必要かww
でも富国強兵による軍事国家の名残は少なくとも今後は無くなっていくと思う。
ちょっと、違うな、ちょっと違和感だな。そう感じている子どもも増えている。だからこそ不登校の子どもたちも増えているんだよね。それは今の社会に今の学校教育が適合していないことを表している数値であると思うの。
 
違和感とは、そこで生まれているんだね
でもそれが、今後はスタンダードになってくる。最終的には学校現場が子どもたちの変化に併せて変化していかなければならなくなってくると僕は思うんだ。
現場で働く教員や指導員には負担がかかっているのが現状で、対応しきれず放課後等デイサービスのニーズも年々高まりつつある。学校が今の子どもたちに対応しきれなくなっているからだ。
 
そこで!!そこでだよ!!!
どうか適応できない子どもに『障がい』として括りをつけないで欲しい
もちろん重度の障がいを抱えているお子さんも多数、デイサービスで見てきた。
 
障がいはどこにあるのか、前にもブログに書いたけどね。
でも何度も感じるんだけど、障がいを生み出しているのは社会だと思うんだ。
社会から見て適応しきれない子どもたちが適応障害自閉症スペクトラムとして区分される。もちろん傷病名を付けることで必要とされる支援もあるし、その子に適応した対応もあることは事実です。でも、その子自身も、学校の一人として、社会の一人として受け入れて行く世の中になれば、障がいなんて言葉が必要なくなってくるんだよね。
差別と区別は紙一重です。今の学校教育や社会に感じる違和感は差別に近い対応があるからかな。区別は必要でしょう。その子に適した教育や対応が必要とされるけれど、どうか障がい者だからと差別の目を向けないで欲しいし、そのような人たちがいることが当たり前くらいに受け止められる場に教育期間がなって欲しいなぁ、と僕は願います。
 
とっても理想を語っているけれどね
現場は想像以上に過酷だ。でも子どもたちが変わっていけば将来は変わると思うんだ。
現場にかかっている負荷は正にその変化を今、直に受けている証ではないでしょうか。
 
髙橋直之