giveyourvoice

不登校経験を経て社会人となったやつらの発信活動

主語は「私」、少しわがままだと思われるくらいが丁度良き

こんにちは、たっきーです。
最近、DIYにハマっているんですよ。仕事や記事を書く合間に家で過ごす時間を豊かにするためにちょっとずつ家に手を加えています。
 
「好きこそものの上手なれ」
僕は仮想空間で仕事をするよりもリアルな達成感と、満足感が自分のモチベーションになっているのかな?と思うこの頃です。エンジニア家業も中々辞められないのは現実ですが、僕はいずれかはシフトしていきたいと感じています。
 
最近、考えることがあるんですよね。
 
「幸せ」てなんだろう?と

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立ち止まった瞬間に考える。時間が環境が私を私らしさから忘れさせるような。感覚。
己の心が満たされた時に、幸せを感じるのか…
他人の吉報を聴いて幸せと感じるのか…
 
どちらも嬉しいけれど、正直僕は己の心が満たされることで幸せを感じる。
極論はそう思う。僕の場合はね。
公言することではないけれど、あえて言うならば結局、自分が大切であるもの。
 
だって、そうしないと”結果的"に心が満たされないじゃない?
誤解しないでほしいのは”結果的"にと言うこと。
 
結果を出すためには、必ず過程があるものです。
その過程の段階に自分は今居るのだなと、思うんです。
だから悩む、苦しむ、迷う、未だに社会人として曖昧なビジョンで生きている。
 
何故?
 
「幸せ」の意味に最近迷うし
僕は、1人ではない、親もいるし婚約者もいる。
この1年間で僕の人間関係は大きく変化したんだ。その前まではとにかく、借金を返済するのに精一杯で仕事に夢中する日々だった。ただそれが、目の前の課題を打開するために走り続けるしかなかった。
 
でも、その課題が無くなった瞬間に
モチベーションを失うと共に自由を得た。仕事に追われる日々から解放されて、次のステージを考える余裕ができたからだ。それが「幸せになりたい」と、言う感情。
 
ただ、ひたすら仕事、
そんな中で、僕の人間関係は、振り返れば仕事9割、プライベートが1割だったように感じる。だからと言って人間関係を全く蔑ろにしていた、とまでは言いたくないけれど、それは言い訳になるのでここまで…
 
最近は余裕ができた、少しずつ、仲間とコミュニケーションをとる時間を大切に思えた、家族や友人、恋人然り。でもそれは自分のエゴイズムでもあるの、仕事が理由でとか、障がいが理由で、とか遠ざけていた人間関係。そりゃ友だちも失えば、大切なヒトですら失うことになる。今更、後悔…どころか相手にとっては「なんだコイツ!」と思われて仕方ない。だから反省…?
 
はしたくないです。
寧ろ開き直っています。だって、そうする余裕と、心の許容範囲が無かった。
とても未熟な人間だった。と認めて、その時、僕は、そうするしかなかったんだ。
と、過去を振り返る。いや、開き直る。
 
以前のブログにも書いたけれど、反省は一度でいいと思うの。
だって、過去を反省して、将来に活かすのは良いけれど、反省しまくって次の行動に移せるモチベーションて持てるの?僕は持てないし、寧ろ自分をいじめる行為だと思う。
 
ならば、キッパリと目の前に広がる世界を見るしかないじゃない。
そこで一番大事なのは、常に主語は「私」であること
 
誰かに言われたから、誰かがこうしていたから
そんな考えでは少なくとも、僕は生きてこなかった。良くも悪くも全て自分が主語で、そうすることで自分の責任で人生の舵を切ってきたのだ。
 
でも、大した現在ではない。
寧ろ失敗だらけ、と言うか、未だに選択に悩み、苦しんでいる。
自分が拗らせ系キャラなのか?否定はできないけれど、敢えて否定しないのはそれも僕が選択した道で、今、その途中にいるから。
 
目的地?
課題を乗り越えるごとにそれは変わる。
そして今、ようやく、自分の人生を豊かに生きるにはどうしたらいいのか。
それはやはり、「幸せになりたい」「幸せにしたい人もいる」
 
心に余裕が生まれたことでステージは変わり、そしてまた新しい悩みを持つ。
選択の連続だよね。そこでやっぱり曲げたくないのは、「私」が常に主語であること。
誰かの責任にしたら、理想的な生き方に到達できないと思うんだよね。
それと、若しくは「私」が主語にならざるを得ない環境もあるの。自分本位に動いているように周りから見られる。でもいいじゃない?
 
僕はそう思う。周りは周りでしょう?
自分本位で捕らえられても、その時はそうせざるを得ない理由があるのかもしれない。
若しくは、自分の目標に達成するためにはある程度の利己的な思考も必要だと思うの。
 
優しい人ほど遠慮する。
遠慮する人ほど、損をする。
損をするほど、幸福感は減っていく。
献身的という言葉もあるけれど、でも献身はやめた方が良い。
何故なら、献身する相手がいるでしょう?何かうまくいかない時に相手の責任にスライドしてしまう。それこそが結果的に醜いし、不幸になる生き方だなと僕は思うの。
 
できるのならば、遠慮は程々に
遠慮なんてしなくて良き。空気を読めとか言われても、空気を作れるヤツが一番強いじゃん。だって周りが空気を読む文化なんだもん。僕が!!私が!!!こう思う!!!!
 
もちろんそれ相応の理由付け、論理的な考え方が求められるかもしれない。
でも、いいじゃない。そんな面倒なことを考えたって仕方ない。理由はただ一つ「私がその道を選んだから」でも、その代わり、責任は自分で負わなきゃいけないですよ。
 
でも、自由なんだよね。そう思考を変化させた時に
離れていく人や、そりの合わない人も主張すればするほど現れる。
でも、自分が思うことがあるのならば良識の範囲内で実行して良きだと思うんだよね。
そしたら、誰の責任でもない。自分の責任にすべてなるけれど、それだけ、選択の自由が選べると、そう感じたんだ。
 
でも、これは飽くまで個別の考え方で
未だに悪しき風習と言っていいのか、どうか、日本の組織社会では別問題。
「長い尾には巻かれろ」それが時に自分の出世や成績の為にはなるでしょう…
でもね、学校組織、社会組織、今の風習が崩れるのはもう目の前だと思うんだ。
 
その時に求められるのが、自分らしさ(オリジナリティ)
それを養う為には、主語を常に「私」として、責任を背負うだけ自由を得たら良きと思う。それが今後、社会的には求められる個人の在り方だと思うんだよね。
注意されたら、直ぐに謝るんじゃなくて自分の意図を伝えられるくらいの気持ちを持てたら理想だよね。どうしても、日本の社会は個性を嫌う性格がまだまだ多数派。
でも、将来を考えてみようよ。個性は個性として、評価される時代がもうすぐ側に来ている気がするんだ。だって某動画サイトで稼ぐ人もいれば、投資で稼ぐ人もいる。
個性派揃いだよね。でも、それが面白いって現在も評価されているから、それが仕事として成り立っちゃうんだよね。僕にはそこまでは突出できる勇気はないけれど。
 
でも、僕は僕が思う幸福を掴みたい。
その過程には、方法論として様々な選択肢がある。
時に、他人の幸せを優先する時もあるかもしれない。でもその先には自分の幸せがあると狙ってのお話でありまして、献身ではないよ。
 
それに近い有名な言葉があるじゃない
「情けは人の為ならず」
 
自分のためにかけるものであると昔の人も言うんだから。
目先の利益だけで動け!と言うメッセージではないんだよ。
優しい人でいいじゃない。でもただ優しいだけじゃダメだよ。って話。
 
人生の主人公は読者様、それぞれなんだから
主語に「私」を使わないのはもったいない気がするな。
 
髙橋直之