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不登校経験を経て社会人となったやつらの発信活動

言葉のちから②

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言葉に救われ、言葉に傷つく
このテーマについて記事を書かせて頂くのは2回目です。
今回はこのテーマについて少し深掘りしていこうと思います。
 
言葉(会話)、SNSや手紙に書き込む文章
言葉って様々な表現方法がありますよね、今回はその中でも「話すこと」会話について焦点を充てていきたいと思います。
 
言い放ってしまったことは矢のように相手の心に刺さるもの
告白であれ、ケンカであれ、友だち同士の他愛のない会話でも言い放ってしまった言葉は不可逆で必ず取り戻すことができない。ということを今回は伝えたいんだ。
 
僕はどうしても衝動的に発言してしまう癖が治らなかった。
大学生になるまで何度も友人に注意され(いや今でもか)
それを繰り返していく中で正しい言葉遣いを学んできた。小学生や中学生の頃は衝動的な発言が仇となって周囲から孤立してしまったことは言うまでもないね。
親に対してもそうだった。ひきこもりの時は思春期真っ盛りだったから親に対して何度も傷つけるような発言をしてしまったことに後悔していることがある。
 
ノートでも、紙でもいい、用意してみて。
それを押すと凹むでしょう?人間の心てそれくらい繊細で薄い…とまではないけれど形を変えやすいものであると僕は思うの。そしてその凹んだ形を戻そうとする力が生まれる。
その凹んだ部分が弓でいう弦のようなものであると思う。
そこで言われて凹んだ部分→凹んだ心(引いた弦)を勢いよく戻そうとして咄嗟に強く言い放ってしまった言葉は矢のように鋭く、相手の心を打ち破ってしまうことがあるんだ。
これがよくある現場は、主にケンカをしている時でしょう。一度傷つけられた心には修復に時間もかかるし、下手したら修復できず、関係すら崩壊しかねない危うさをあるんだ。
 
僕は何度か口げんかをして言い放ってしまった言葉に後悔することが幾多もあった。
尊い絆を失うことになったこともあったし、未だに修復できていない関係性もあるんだ。
 
何故だろう?
 
僕は過去にいじめを受けて言葉の暴力には散々嫌な思いをさせられた
それが故に言葉の扱い方には細心の注意を払っていたつもりだった。でも衝動的に突発的に発言してしまうことが今でも治らないんだ。過去にあれだけ嫌な思いをしたのにそれと同じことを繰り返してしまう自分に嫌気が差すこともある。
 
本当に咄嗟の一言を抑えられるか、抑えられないか、それによってこれからの人間関係で苦労するかしないかは大きく変わってくるのではないでしょうか。
社会人で最も多い悩みは人間関係に関する悩み、退職理由においても上位に昇るほど多くの人が悩んでいる人間関係。本当に難しいですよね。
 
それって実は、咄嗟の言葉遣いが大きく影響しているのだと思うんです。
日本語ってすごいよね。漢字一文字で気持ちを表現することができるんだ。
それだけ表現力に富んだ民族なんだよね。確かに外国人との会話ではフレンドリー、オープン!と言った感想を聴くけれど、日本の文字文化にはリアクションや表情などを加えなくても言葉における意味の比重が重いからこそ外国人とは違うコミュニケーションになっていると思うんだ。
 
よくね、外国語で話している時は気持ちが大らかになるという人がいる
それは多分日本語にはない、文字に込められた意味以上に、リアクションやボディランゲージを用いて自分の思っていることを日本語よりもソフトに且つ本音に近い言葉で伝えやすいからではないかな?て思うんだ。
 
横文字を縦文字に直すと妙に重く感じたりしませんか?
はたまたスゴイ違和感に感じたり。
 
例えば僕が出勤に使う路線に
シーサイドライン」というのがあるんだけれど縦文字にしたら「海の側の電車」
うーーん。「シーサイドライン」の方がいいよね。ソフトいうかなんというか、スゥーっとネーミングとしてはいいと思うんだよね。例えば自分の苗字を横文字に変換してみるのも面白いよ。「緑川さん」なら「グリーンリバー」みたいな。実際になんか、どこかにそんな名前の川がありそうだなと、多義的に想像が浮かぶよね。
 
そう、日本語と外国語の違いは、言葉のもつ意味域の差だと思うんだよね。
日本語は意味がとても狭いが故に漢字、カタカナ、平仮名それぞれ使い分けるよね。
特に漢字は持つ意味が最も狭義である。故に漢字の持つ力はとても強いんだ。
 
そもそも論になってしまうけれど、人は会話の中で意味を知覚するために会話の中でも文字変換をする。例えばさ、英語を話す時も日本語に訳したがるのが初心者の特徴だよね。それは意味を自己知覚するために必要な工程なんだ。
 
それと同じことが日本語での会話の中で起こっているんだよね。
 
「それどういうこと?」
「何を意味しているの?」
 
喧嘩をしている中でも確認するでしょう?
そしてさらにヒートアップしていくなんてことはありませんか?
 
コミュニケーションは言葉でのキャッチボールとよくいうね
日本語てボールで例えるのならば軟球と硬球があるけれど、どちらかと聞かれると硬球だと思うんだよね。硬球でキャッチボールするととてもグローブに重みを感じませんか?
バシっ!バシっ!とこんな感じにね。
 
研究者や語彙力に優れた人はよく横文字を使いたがるでしょう?
都民ファースト」とか正に良い例え
 
よく横文字使うよねぇ、どっかの都知事さん……
格好つけたいんじゃなくて、言及を避けたいんだろうなと思う。
そうすることによって、無駄な批判を回避することだってできるからスゴイ!!
 
日本語てつまり文字に込められた意味が豊かなだけあって、発言や会話にとても敏感なんだ。それは僕ら日本人にはどうしても捨てることのできない民族性なんだと思う。
それを理解上で発言をしていかなければならないと考えるとちょっと重く感じちゃうよね。
 
でも、それくらい重い言葉なんだよ。
それを意識して相手に伝えるべきか伝えないべきしっかりと吟味する必要があるんだ。
意味に富んだ私たちの文化だからこそ、言葉の持つちから(意味)を再認識したいね。
 
人間の心は本当に紙のように薄くてすぐに凹んでしまうんだ。
そこに硬球を投げつけるんだから、優しくオブラートに包むように伝えることで
自分も守ることができるし、相手を傷つけることも少なくなるのではないでしょうか?
 
特に喧嘩をしている時なんて意識することは難しいかもしれない
人間同士だもの、でも常日頃から言葉のちからを理解することで優しいキャッチボールに変えていけるのではないかな?そもそもケンカもしなくて済むし、誤認識も避けられるかもしれないですしね。うーーん、これを書きながらも筆者は常に言葉遣いに悩みを抱えています。衝動的に発言してしまう自分をなんとか治したいんだけどなかなか治せないでいる自分にヤキモキしていたりするんですよね。
 
僕自身も抱える課題でもあります。
 
髙橋直之

ひとりぼっちじゃない

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ひとりで頑張ろうとしないで
本当に助けたいと思う人が近くにいるのに助けの手を差し伸べられない
ての差し伸べ方も分からないし、とても歯痒い思いをした経験がありました。
 
中学を卒業して初めて、気がついたんだ。
自分が不登校で引きこもりで悩んでいた時も親や先生、友人はそうした歯痒さを感じていたのかと感じると、とても頭が上がらない。
 
つまり両方を経験しているからこそ僕は板挟みになりやすいタイプなんだよね
そういう場面に自分が直面した時、落ち込んでいる友人にかける言葉が見つからない。
 
放っとく訳にもいかないし、気になる
けれどあまり急かしても本人のためにはならないことは分かっている。
時間と本人の中で問題に対する認知が必要だ。見守ることしかできない時はとても心苦しくなる。「その時」まさにその瞬間、心苦しさを感じてしまう人に向けて今回はブログを書きたいと思います。
 
優しい人ほど、真面目で、尽くすタイプ、または完璧主義であったり妥協ができない
そんな人ほど、共鳴しやすいんだよね。つまり同じように悩んでいる本人に気持ちばかり引っ張られてしまうんだ。よく巷ではうつ病は移る病というけれど、本当にその通りだと思うんだ。僕もいっときあったよ。
 
話を冒頭に戻すけれど中学を卒業して友人や先輩後輩、恋人と様々な人間関係を高校生になってから築いていくことになる。そうするとその関係の中で一喜一憂してしまうことがものすごく多かったんだ。特に身近な人であればあるほど、我を忘れてまでもなんとかして元気になって欲しいと、尽くしていた時期があったんだ。
そうしていると、やっぱり僕自身にも健康を害したり他の関係性を崩してしまうとか、そんな体験があったんだ。あの頃はただひたすら真っ直ぐだったんだよね。
経験が浅はかだったせいもあるのかな、視野が狭いと言ったら正しい表現だろうか
 
その人が落ち込んでいたら、その人!!しか目に入っていなかった時期があったんだよね。もう「まえーならえぇぇぇ!」みたいな感じ。真っ直ぐ手を前に出して、その範囲から外は全く目に入っていない。だから孤立してしまったり、自分が併せて落ちていってしまったり、そうした時期があったんだ。でもね、やっぱりそれって自分を守れていないよね。今だからこそ分かることだけど、その頃は必死だったとしか言いようがない。
 
と言うよりも、誰もがその立場になったら必死になるんだと思うの
親子だったり、親友だったり、恋人だったり、大切な人であればあるほど真っ直ぐになってしまうことは致し方ないよ。
 
その気持ちに寄り添った形で考えたいのは、手を差し伸べる側にも助けが必要ということ。とは言っても案外、他の人に話しにくい内容だったりするし、重い内容であればあるほど共有はしづらいんだよね。
 
でも、変な例え話ですが
『大きなカブ』て話があるでしょう?それと同じじゃないかなぁと考えたりする。
最初は一人で頑張るけどさ、大きさが大きさなだけに仲間を呼ばないと引っこ抜けないでしょう。ここで伝えたいことは二つ。
 
  1. カブを引っこ抜くには一人きりで難しいこと
  2. 仲間を集めることでカブを引っこ抜くことができたこと
 
共通することは一つやんね。一人じゃ無理なんだよね。
誰かを助ける前に、自分のことも助けることを忘れないであげてください。
 
予防線を引く、と言うのかな。
先ずは自分が第一でいいと思うんだよ。それが相手のためにもなるし自分の為にもなる。
だって一緒に引きずり込まれちゃったら相手のためどころか自分も捨ててしまっているじゃない。悩みごとや問題を抱えている場面に遭遇した時、一番、孤立してしまいやすいのは手を差し伸べる側だったりするんだよね。だって「内緒で相談したいんだけど」て言われたとしたら、あなた一人でしか抱え込めなくなるでしょう。世に言われる優しい人であればあるほど、献身に走ってしまうんだよね。
 
じゃあ誰に相談すればいいの?
 
”もし良ければここに相談(コメント)してください”
このブログは引きこもり、不登校を経験してきた、ちょっと、いばらの道を歩んだ人が運営しています(自分で言うなし)
 
それ以外にも、”自殺防止ホットライン”等の公共サービス
でも一番頼りになるのは自ら持つネットワークですよ。「内緒ね」て言われてもあなた自身が引きずられてしまっては元も子もないないでしょう。
 
悩んでいる人も辛い
でも悩んでいる人に手を差し伸べる立場の人も辛いの、そして孤立しがち
ひとりぼっちで考えないでください。みんなで考えましょう。
内緒ならば、内緒なりに、本人の尊厳が最低限守られるように情報開示はしてしまっていいと思います。「守秘義務?」そんなもんいらん!!!専門家じゃないんだから。
友だちや家族は信頼でむずばれた仲でしょう。最適な選択を僕は選ぶべきだと思うんだ。
 
僕らだって何もない、無資格で、経験を素にここに文章を日々綴っています。
資格があったって経験に勝るものはないと思うの。
 
少しでもこのブログが小さな悩みでもいいからヒントになればいいと思いながら書き続けています。もしもあなたがこのブログを読んでいるのならば、先ずは「ひとりぼっちじゃないですよ」それを伝えたいです。
いずれかは相談ポストになり得るメールアドレスも公開しようか、検討する段階に入っています。手を差し伸べられる優しさを持つ人が、元気を無くしてしまうのは悲しいもん。
 
今後のこのブログの方向性の課題であり。
どこまで読者のお力になれていけるかこれからも考えながら日々更新していきます。
 
今日はこの辺で、最後までお読み頂きありがとうございました。
 
髙橋直之

学校に対する違和感

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本当に学校は必要なのか?
不登校」て響き
なんか僕はあんまり好きではありません。
 
「負登校」なんだか負の要素を感じさせるからです。
学校て本当に必要なの?義務教育に対する挑戦的な発言ですが…
 
僕は小学校と中学校と、ろくに学校に通ってませんでした。
でも、今は大人になって家族を支える立場にあります。義務教育?
僕はその義務教育を全て受けてきたかというと、そうではない「不登校」の時期を経て
高校も通信制の学校を卒業し、4年生大学を卒業し世に言う大手の会社に就職することができました。そこまでに至るには先生や親、友人の支援が必要だったと思うけれど義務教育の必要性が本当にあったかと言うと、とても疑問です。
 
義務?寧ろ義務という響きが私を僕を苦しめていたんだ。
学校へ、なんで行かないの?部活へなんで参加しないの?世の中でいう当たり前、それに対して僕は理不尽さを感じていたんだ。寧ろなんで学校へ行かなきゃ行けないの?
そんな疑問を当時抱いていた。返ってくる言葉は進学のため、将来のため、僕はその言葉に飽き飽きしていた。また、それか。
 
事実です。僕は大手と言われる企業に就職もしたし、4年生大学も卒業しました。
 
それが僕の能力、の一言で片付けられるのはあまりにも悲しい。
だって、会社に就職できたのも、4年生大学を卒業できたのも周囲の支えがあったからだ。でも支えとは何か?「学校に行けっ!!!!」そんな言葉ではない。
僕の考え方を否定せずに、尊重してくれて、且つ自己表現をする大切さを教えてくれた周囲(主に友だち)の存在だ。僕はブログにも書いてきたが演劇という手段で自分の抱え込んできた「思い」「苦しみ」をセリフにして発してきた。初めて自分の思いに正直になれた瞬間がその中にはあったんだ。それによって僕は僕という自我を確立していくことができた過程を今も忘れずにいるよ。
 
とても恵まれていたと思う『演劇』という自己表現の場を与えてくれた友だち、主にenokiには感謝したいと今も思っているんだ。その中で、僕はこうであっていいんだ。自然であっていいんだ。自己肯定感を支えてくれる瞬間でもあったんだ。僕には欠かせない瞬間だったことは言うまでもない。
 
もちろん最初は自分自身を出していくことはとても恥ずかしかったし、遠慮もあった。
本当に受け入れてもらえるのか、僕のこの気持ちを誰かが共感してくれるのか、共感まではいかずに寧ろ否定されてしまうのではないかと僕は最初は怖かった。
 
でもさ、一歩踏み出すことで、その恐怖心も少しずつだけど薄らいでいったんだよ
僕は僕の考え方で合っていいんだ。
 
否定されても、それは個人差として受け止められたんだ。
あなたにはあなたの考えがあって私には私の考え方がある、自我の確立だ。
 
どうしても僕は今の教育には納得のできないところがたくさんあるんだ。集団行動の遵守、元々は富国強兵により軍事的な背景によって作り為された教育方針に違和感を感じずにはいられなかったんだ。皆同じ動きをして、皆同じ答えを求めて、整列を求められるときなんて、反吐が出る程の違和感を感じた。「なんで自分がこんなことせんといかんの!!」
日本には徴兵制が無いが、義務教育が徴兵制に類似しているのでは無いかと感じる時もあった。特に運動会で強いられる集団行動とかは良い例えでしょう?
 
僕はそこに馴染めなかった。
馴染まなかったが故に一人孤立していったんだ。そして、いじめの対象になった。
 
皆が当たり前にできることを何故できない?
僕は何故その集団行動をする必要があるのか理解し難かった、そして悪として扱われた。それが現実だ。馴染めないことが悪いこととされた。
 
とても難しいよね。
社会人になって僕は気がついたんだ。社会人になって会社にもよるけれど、周囲にいかに組織の一人として加わることができるのだろうか、もちろん、馴染めなければ会社には居られない、居場所をなくしていってしまうんだ。
 
大人に必要とされる能力を日本の学校教育で育もうとしているのか……
いいや僕はやっぱり納得できないな。
 
僕がある会社を受けた時に発言した言葉があるんだ。とても行きたかったけど落ちちゃったけれどね。そこは海外の教育や食育等に力を入れる教育機関で自発的な子どもを育んで行こうとする場所だった。
 
「今の世代の子どもたちが変化していったら、社会も変わります。最近、近所の公園で走りまわる子どもの姿を見かけなくなりました。僕が小さい頃には5時に鳴るお寺の鐘の音が鳴るまで外で駆けずり廻っていた。でも最近はそれがない。子どもたちはどこへ行ってしまったのか、やはり家の中なのか。僕は自発的な子どもが増えて行けば、学校の教育も変わると思うんです。海外の学校ではみんなが手をあげるけれど日本の学校では周りの空気を読みながら粛々として手を挙げる子どもが多い。自発的な子ども増えて行けば教育環境も変化する。教育機関が変化すれば社会も変化していく。」
 
つまりね。集団行動も大事だけど
その中で多様性を認めていけるような子どもが増えていくことで20年先、30年先の社会は大きく価値観が変わってくると思うの。「先見の目だ」学校に対する違和感はある。けれど、現代社会に求められる教育機関として今は現状維持が現場は精一杯だと思うの。
 
でも、子どもが変化していけば、教育の方法も変わっていくよね。
何も運動会を行進で始めなくても、わぁぁぁぁ!!って一斉に駆け出して初めてもいいと思うんよね。整列の必要はありますか?開始の挨拶は必要ですか?…開始の挨拶は必要かww
でも富国強兵による軍事国家の名残は少なくとも今後は無くなっていくと思う。
ちょっと、違うな、ちょっと違和感だな。そう感じている子どもも増えている。だからこそ不登校の子どもたちも増えているんだよね。それは今の社会に今の学校教育が適合していないことを表している数値であると思うの。
 
違和感とは、そこで生まれているんだね
でもそれが、今後はスタンダードになってくる。最終的には学校現場が子どもたちの変化に併せて変化していかなければならなくなってくると僕は思うんだ。
現場で働く教員や指導員には負担がかかっているのが現状で、対応しきれず放課後等デイサービスのニーズも年々高まりつつある。学校が今の子どもたちに対応しきれなくなっているからだ。
 
そこで!!そこでだよ!!!
どうか適応できない子どもに『障がい』として括りをつけないで欲しい
もちろん重度の障がいを抱えているお子さんも多数、デイサービスで見てきた。
 
障がいはどこにあるのか、前にもブログに書いたけどね。
でも何度も感じるんだけど、障がいを生み出しているのは社会だと思うんだ。
社会から見て適応しきれない子どもたちが適応障害自閉症スペクトラムとして区分される。もちろん傷病名を付けることで必要とされる支援もあるし、その子に適応した対応もあることは事実です。でも、その子自身も、学校の一人として、社会の一人として受け入れて行く世の中になれば、障がいなんて言葉が必要なくなってくるんだよね。
差別と区別は紙一重です。今の学校教育や社会に感じる違和感は差別に近い対応があるからかな。区別は必要でしょう。その子に適した教育や対応が必要とされるけれど、どうか障がい者だからと差別の目を向けないで欲しいし、そのような人たちがいることが当たり前くらいに受け止められる場に教育期間がなって欲しいなぁ、と僕は願います。
 
とっても理想を語っているけれどね
現場は想像以上に過酷だ。でも子どもたちが変わっていけば将来は変わると思うんだ。
現場にかかっている負荷は正にその変化を今、直に受けている証ではないでしょうか。
 
髙橋直之
 

親の気持ち、子どもの気持ち②

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前回に引き続きこちらのテーマでブログを更新します。
 
皆さんどう思われましたでしょうか。
こちらの記事を投稿したところとても多くの反響がありましたのでシェアしたいと思いました。親御さんの視点とお子さんの視点で不登校に対する向き合い方や感じ方は類似しているように僕は感じます。
 
子どもの視点
Mさん
僕が親に対して意識することはなかったけれど、確かにひとり言ではないなと感じた。
 
親の視点
子供がいる方には是非読んでほしい記事です。 私には小・中学生の子供が居ますが、学校の話を聞いていると、今や不登校の問題は「ある日突然やってくる」他人事でない身近な問題だと思います。
 
親と子の視点で共通するのは「他人事ではない」、「ひとりごと」ではない。
つまり不登校という現状に対して見方を変えてみたら親子の関係が大きく因果していることも分かり、親子で影響をしあっている可能性が見えてきました。
 
確かに当事者であるお子さんに対しては思春期があるが故に言いずらさ等のタメライがあったりするけれどご両親にも影響していることで、ひとりごとではないことをこの記事で感じ取ってもらえたんではないでしょうか。
 
そして親御さんからしてみたらいかに、お子さんとのコミュニケーションをとれているかで未然に防げるのではないかと他人事ではないと評価を頂きました。
 
正にその通りで親御さんは他人事ではいけないんですね。学校へ行ったからあとは任せっきり、それではお子さんの成長の全ての過程を見届けることができないんです。学校教育では30人、多いクラスでは40人に達します。先生一人が担任で全員の生徒の体調と人間関係を把握できますか?やはり限界があります。親御さんも積極的に学校教育に参画していってほしいのです。難しいことではありません。
学校の話を少し聞いてみること「今日、何をしたの?」「何か楽しいことあった?」些細なことでいいんです。6時間、部活があれば朝から8時間を学校でお子さんは過ごしています。1日の中で学校が占める割合が3分の1以上にはなるんですね。
お子さんはその環境で日々学び、成長しています。そして何があるか分かりません。
小さなサインに気がつけるのは親御さんなんですね。先生だって目を光らせていても限界があります。担当教科があれば、事務仕事もあり、更には部活まで兼任しています。
先生の過酷さと言ったら計り知れない勤務状況です。そこで学校に全て任せっきりというのはいかに危ういことかというのをちょっと気がついてほしいんですね。
 
そして、子どもの立場からしてみると先生に頼ることがまず難しいです。
何故か?先生は平等に生徒を扱うからです。次に忙しいからです。
学校生活では色々なことがあります。いじめに限らず、日々、集団行動の中で教科だけでなく人間社会を学んでいるんです。上手くいかない日もあるでしょう。上手くやっているように見せたがるのが子どもの気持ちだったりします。承認欲求が最も強まるのもこの時期でもあります。子どもは親に格好悪い姿を見せたがらないんです。寧ろ1日の大半を過ごしている学校で何を学び、そして成長したか褒めてもらいたいが故に抱え込みがちになる。更に思春期も相まって親との距離が開きつつある、上手くいかずに孤独になる子ども、ある子どもは友達や恋人と言った社会で別の居場所を築き上げることができる時期でもあるんです。
 
ここで注意したいのが孤独と戦っている子どもです。
親にも先生にも頼れず、学校で何か問題を抱えている場合、やはり萎縮していく傾向にあります。誰が先に気づく距離にいるのか。やっぱり親ですね。
僕の場合突然でした、パッタリと学校へ行けなくなってしまったんです。それは心に抱えた爆弾を溜めに溜めた結果、破裂してしまい。学校へ行く意欲、親に見せる自分の姿はどうでもいい。そうやってひきこもりになりました。
 
溜まりに溜めた最後の壁はなんだったか?
やっぱり親だったかな。先生にも頼れない、友達にも頼れない、最後の砦は親なんです。
でも僕は頼ることができなかったがために、一人で閉じこもる方向を選ばずにはいられなかったんです。とてもわがままな消去法ですね。でもそれが精一杯だったんだ。
 
子どもが親にいじめの告白や学校へ行きにくい原因を話す瞬間はとてつもなく勇気がいるでしょう。そのハードルを低くする方法はただ一つで常日頃から親子関係を築くことも大事なんです。「学校へ行っているから先生に後は任せよう」それじゃダメなんです。
 
ごめんなさい。これをお読みになっているお子さんのいる方がいらっしゃったらとてもご無理をここに記載しているかもしれません。仕事も忙しいでしょう。家事だって大変です。ご近所付き合いだってあります。日々することはたくさんあるでしょう。子どもには早く精神的に自立して欲しいが故に子どもは学校任せになる……
学校も限界なんですよね。先生だって目が行き届かないところがある。特にいじめは先生の目の届かない場所で起きています。
 
いじめを苦に自殺した子どものニュースを目にすると心が痛い
でも、どのニュースにも共通するのは最期に手紙に残しているんですね。
誰にSOSを発信していいか分からないんです。先生?親?でも最期に残しているのはおそらく親に向けたメッセージが共通しているんです。
 
「こんな選択をしてごめんなさい」
 
誰に謝っていると思いますか?やっぱり親なんです。
いじめについて事実を告白するくらいなら命を絶ってしまう、そんな選択があるんです。
 
もっと早く相談できていたら、相談できていても対応できていなかった学校にも原因があるでしょう。でもやっぱり、いじめに苦しむなら別の選択肢を早い段階で子どもに提案できると思うんです。「死にたいくらい苦しい」そういう時期も僕にはありました。遺書を書いたこともありました。それも親に対してです。
 
やっぱり最期は親なんだな。僕はそう思った。
これ以上、いじめ等が原因で小さな命が失われていくニュースを僕はみたくないです。
何故なら自殺するくらいに悩んでいるんですよ、その過程の苦しみは私たちには計り知れないほどのものだと思います。辛くて辛くて仕方がない。最期に置き手紙にしか残せないのが子どもの最大限のメッセージであり、恥を見せたくないプライドだったりします。
 
それを肯定する訳ではありません。でも実際に起こってしまった事実です。
それを繰り返さないためにも、小さなことから予防線が張れるんです。
 
家族関係を良好にすること。話しやすい環境を作ること
特に男親は接する時間が少ないが故に子どもと離れがちになってしまいます。
 
コメントでも頂きましたが正に他人事ではないんですよね。
じゃぁ親はどうしたらいいの?
 
お子さんに無理はさせないでください。
自分からいじめの事実を伝えてくれるのは本当に稀なケースです。
伝えてきたら受け止めてあげてください。よく言ってくれたと褒めて欲しい。
 
どうしても親と学校は離れがちになります。
接する機会は年に数回あるイベント、体育祭や文化祭などでしょうか
でもそこでは分からないことが日々起こっているんですね。
 
大人になった僕だから振り返れますが、現状苦しい立場にある子どもたちは言葉にできない事実もあります。解決策は家庭教育と学校教育と密接さを増すことですが、近代日本ではなかなか難しいですね。温度感もあります。
 
だから小さいことからでいいと思います。
「今日はどうだった?」
 
少しでも変化が見えたら問いかけてみるのが早期解決に繋がるかもしれません。
 
髙橋直之

親の気持ち、子どもの気持ち①

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親子のすれ違い、ありませんか?
先日、母と話し合う機会がありました。
僕の父は三年前に他界しており今こういう話ができるのは母だけなんだ。
 
中学生の時に不登校だった自分をどのような気持ちで見守っていたかと、切り込んだ質問をしてみました。今までこんな質問をしたことがなかったから母は動揺していたけれど正直にこう答えてくれた
「どうしていいか分からなかった」
 
その通りだよね、当時を振り返ると本当に親にも先生にも迷惑をかけたなと思う。
情けない気持ちにもなるけれど、どうしてもいじめの事実を話せずに部屋に篭った自分がいたんだ。その当時はそれ以外に対応が思い浮かばなかった。
そうして自分を守ることしかできなかったんだ。
 
ここでね考えることがあったんだけれど。
いじめに遭った本人だけじゃなくて家族にも大きな影響があるだよね、てこと。
当時、僕の両親は相当なストレスだったと思うんだ。だって何故息子が部屋に閉じこもっているのか理解できなかっただろうし、何とかして将来のためにも学校へ行かせたかったと思うんだ。
 
毎日のように、親同士が僕への対応について喧嘩する声が聞こえてきた時期があった。
親だって、家族だって、二次被害者ではあるんだと思うんだ。と同時に僕自身も加害者になっていたのかもしれない。親を困らせていた当事者が僕だったのだから。
いじめを受けているとどうしても被害者意識が強くなるけれど、もちろんね、当時の僕にそれを迫るのは酷な話だけれど、実は僕も親や先生を困らせていたんだ。
 
でも、それに気づくにはあまりにも遅かったんだ。
一番最初に気がついたのは高校生になって学校に通い始めてからだった。
毎日、登校する姿を見て僕の両親は安心した目で僕を見送っていた。ある日、不登校について考えるシンポジウムにパネラーとして参加したんだ。その時は自分が過去に不登校になった経緯についてパネラーとして事実を紹介した。
そこに訪れる不登校児を抱える保護者の目が、僕らパネラーを刺すかの如くに必死さと焦燥感、様々な感情を持って訪れている人がいたんだ。中には話を聴きながら涙する保護者も居た。
 
「どうしたら毎日学校に通えるようになりましたか、きっかけは何ですか?」
必死な質問だった。不登校児を抱える親も必死なんだ。そしてその時に僕は回答が詰まったんだ。不登校だった当時の自分を抱える両親の心境を、状態を目の前にした自分に初めて罪悪感が襲ってきたんだ。
 
その質問に答える資格が僕にはないのではないか
どんだけ親を苦しめてきたのか、僕はいじめに対する被害者意識にだけ囚われていたんだ。閉じこもることで自分の置かれた環境や理不尽さから逃げていた。と同時に僕は親に対して迷惑をかけていたんだと気がついたんだ。
 
シンポジウムに訪れる、不登校児を抱える親を目の前にして僕はパネラーをしながら遅すぎた気づきと罪悪感に苛まれていたんだ。何とも言い難い言葉に言い表せない気持ちだった。
 
親は学校へ何とか行かせたい(子どもの将来を考えて)
子どもの理由は人それぞれだが引きこもることで社会にサインを出している
 
親と子の間で意思疎通が図れていないケースがシンポジウムでは浮き彫りになっていた。意思疎通なんてとれるものかな?だって僕は不登校当時は親さえ敵だと感じていたんだ。行きたくもない学校に毎日行くように問いかけてくる、それが怖かった。
 
でも親は僕のために学校へ行けと言うんだ。(将来を考えて)
 
社会人になった僕は思う。申し訳なさは確かにある
でも開き直っている自分がいる。僕が求めていたことは学校へ行くことじゃない
行けない状況を当時は認めて欲しかったんだ。理解して欲しかったんだ。
 
何と言うワガママ、自分から気持ちを伝えていないのに
でも、やっぱり学校へ行かない=ダメと言う考え方が僕を日に日に追い詰めていたんだ。それは子どもの立場からして確かな事実なんだよね。追い詰められれば追い詰められるほど僕は殻に閉じこもっていったんだ。
 
「何で学校へ行きたくないの?」
 
その問いが言いたくないけれど、そんな切り口で手を差し伸べて欲しかった、と言ったら本当にワガママで親不孝である。でも今僕は振り返るけれど、当時の僕の心の鍵を開けるアプローチはそれだったんだな。と思う。
「学校へ行け」ではない、なぜなのか?そこを無理やりでも引き出して欲しかったんだ。自分で言える勇気がなかったから。
 
僕も良くなかった、承知している
 
親と子がすれ違うことによって、余計に不登校は深刻化していく
部屋に閉じこもり自分を否定し、セルフネグレクトに陥るか、または命を断ちたいと思うくらいに、いや行動にも走らせてしまうのかもしれない。
 
親子の関係は最も強い関係で結ばれていると思う
それが故に親が敵になってしまった暁には、子どもは最後に誰を頼ればいいのでしょうか?子どもにはまだ幼すぎて親の気持ちまで理解できる、または慮る余裕はないんですよね。意固地になっていたり、理由を離せない事情があったり。様々だ。思春期真っ盛りの中学生は特に自分の弱みを親にさらけ出すのには勇気がいるんだよね。
 
そう考えると親になるって本当に大変だ。
子どもとスキンシップを図れていますか?対等な関係でいられていますか?
 
部屋に閉じこもってしまった子どもはそうすることでしかサインを発することができないだろうと思うの。セルフネグレクトの状態だ。将来を悲観しているし、親でさえ敵だと考えているかもしれない。とても難しい。
 
でもそうなる前に、子どもはサインを発しているかもしれません。
表情がなくなる、学校の話をしなくなる、反抗的な態度が目立つようになる
 
学校の話をしなくなるという傾向は初期の僕の中で経験がありました。
できる限り学校の話はしたくなかった。聞かれたくなかった。だって虐められている事実を知られたくないからなんだ。
 
僕は思う。僕が親になったらできる限り子どもとは友だちのような対等な関係を築きたいと考えている。子どもが親に話しかけやすい関係を築きたい。その中で一番邪魔になるのはやはり関係に段差があることだ。親は偉い。確かにそうだ。
家庭教育をする上でも親である以上、子どもに叱らなければならない。実に難しい。
 
でも、子どもに発言権を持たせる怒り方はどうかな
「何でその問題行動に至ったの?」まずは質問形式で、
 
子どもは答える
「〇〇だから」
 
ここで一度、味方になるんだ!「確かにそうだね」「そんな風に感じたんだ」
 
「でもね?」ここから人としての行動、社会人として必要な事を提案するように伝えてみるんだ。子どもは何て返してくるだろう?
 
皆さんも突然否定されると反抗的な態度をとりたくなりませんか。
多分、子どもも一緒だと思うんだよなぁ、思春期を迎えていれば尚更だ。
 
小さい頃から親子の関係を近いものにすることで、不登校になる未然に防げることができるのではないかなと、僕の持論にすぎないけれど思います。
僕にとって両親がもっと近い関係だったら無駄なプライドを抜きにして僕は正直に、両親にいじめを受けている事実を告白することができていたのではないかなぁと思います。最初に相談できる相手として親が自分の中にいてくれたらこれ以上に心強いことはなかったな。
 
特に!!!男親であるお父さん?要注意かもしれませんよ。
僕も将来子どもを育みたいけれど男親は女性に比べて子どもへのスキンシップが少なくなってしまいがちではないでしょうか。更に稼ぎ手であることから偉そうな立場や挙動が目立ちやすい。一番ショックを受けた言葉はこれだ。
 
「誰のおかげで飯が食っていけると思うんだ!!!」
今でも鮮明に覚えている僕の父の発言だ。確かに、確かにその通りだよ。
でも、そんな事言われたら子どもは何も返せなくなるよね。決定的に親が僕を理解してくれないと僕が判断した瞬間がこの言葉だった。絶対に言わないでくださいね。
 
それ以上にどうしても変えられないのは、お乳を飲ませるところから男親にできることは子どもに対して少ないんだ。物理的にね。
 
でもいかに、良いお父さんになれるかどうかを僕は今一番考えているよ。
まだ先の話だけどね。
 

便利さの中に

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世の中は便利になるけれど…
最近ね、おばぁちゃんが僕に戦争していた時代の話をしてくれるんだ。
戦後の闇市で米や芋を買って、なんとか10人以上いる兄弟を支え合って生き抜いてきた。
もちろん、闇市で売られているものは非正規にやりとりさえれているもので、その頃の警察は厳しく取り締まっていたそうだ。でも生きるためには闇市に手を出さずにはいられなかったそうだ。
 
明日食べる食料がない。そんな不安を私たちは抱えたことはあるだろうか。
 
現代社会が、いかに恵まれているか、とても話を聴いていて思い知らされる。
私たちは近所のスーパーやコンビニへ行けば食料は手に入るよね。
でも、昨今では台風18号の影響などで、事前から台風に備えるためにとコンビニから保存食品が空っぽになった光景を目にしたことがあった。不便さを感じた時、人間はどうするか?
 
助け合うんですね。
 
見ず知らずの人が僕に声をかけてきたの
「ここら辺のコンビニは全滅だからもっと大きなスーパーに行った方がいい」
「新しいコンビニが近くにオープンしていたからそこへ行ってみたら?」
 
食糧難に茫然と立ちすくむ僕に、何故かたくさんの声をかけてくれたの
中には名乗らずして食料を分けてくださる人すらいた。
感謝のしようもないが、今となっては。でもそうした人間同士の触れ合いがあった。
 
そう、困難な状況を共有すると人と人は助け合えるんだ。
僕はそう感じた。祖母が過去に体験した戦後の食糧難の時のように、
「まだ、捨てたもんじゃないな、この国は」だなんて口ずさみたくなった。
 
私たちは便利さの中で失ってしまったものがあるのではないだろうか
ある友だちとの会話で出てきた言葉だった。
 
その友だちは世界を旅行して、貧困や、言葉が通じない等
そうした体験を繰り返しながらも、人間関係を異国の人とも築いていた。
困難な経験を重ねて帰ってきた彼女は、一段逞しくなったように僕の目には映った。
 
それはやっぱり、彼女自身が強くなったこともあるのだろうけれど
人と人が共同するという、ツールを手に入れたからではないかなと僕は思う。
 
人は一人では生きていけないんだ。
じゃあどうしたら強くなれるの?仲間を作ること
助けを求める勇気、発信していく力、そうやって人間関係を広げていくことで
自分の生きやすいフィールドを広げていくことができるんだ。
 
困難な状況に陥った時
世間では都市直下型地震が30年以内に70%という数値が出されていることから
いつや訪れるか分からない未曾有の災害。そんな時に生き延びる術はやはり仲間をいかに作れるかだと思うの。自分が困難な状況に陥った時に遠慮なく”HELP”そのサインを発することが、できるかできないかで大きく変わってくると思うんだ。
 
人間て素敵ですよ
助け合うという本能を持っているんだ。
自分さえ良ければいい。もちろん自分の身の安全が守れてから他者への助けの手が差し伸べられるのでしょう。自分本意でいいと思います。でも捨てたもんじゃない。
助けてのサインを出している人の元には必ず助けが来るということ。うん?「それは甘い考えじゃないかって?」確かに甘い考えかもねぇ。
 
でもさ、人を信じずにしてあなたは信頼されますか?
怖がりながら人と接していて、信頼関係を築けますか?やはり僕はさ、未曾有の事態に陥っても人と人は助け合える可能性を秘めていることを忘れてはいけないと思うんだ。
 
確かに受け身ではいけないと思う。自分から助けなりなんなり発信する必要があると思う。見逃さないから、あなたのサインを。
まずは自分の周囲の友人、知人、そして輪が広がっていくんだ。もしも僕の友だちが「助けて」のサインを出していたら可能な範囲で対応したい。
もちろんね。面接中や授業中に「話を聴いて欲しい」と言われても対応しきれないことは現実問題あるんだけどね。でも筆談とか、できる策はこうじようと思うよ(おいっ!!)って感じだけれど、やっぱり友だちは僕にとってかけがいのない存在だもん。限界はあるけれどね。
 
でもそれが僕の性であり、人間の性なんだよ。
 
目の前で人が倒れているのに、素通りする人なんていないでしょう?
「AーーーーEーーーーーーD!!!!!」
ってプルプルしながらもなんとか倒れている人を助けようとすると思うの。
 
いやね、捨てたもんじゃないよ世の中。
だから自分が辛いと感じる時は助けを求めてみようよ。
未曾有の災害では対応が分かれるけれど
 
例えば、悩み事とかもそう
相手に伝えることでさ、自分の状況が変わるかもしれないんだって
祖母の戦争の話を聴いてもそうだけどさ、状況は違えど助けを求める大事さはあるはずなんだ。依存の関係までいってしまってはまた別だと思うんだけれどね。
 
僕が不登校だった時を振り返ると、やっぱり自分の殻に籠もっちゃったんだよね
助けを求める前に自分の空間(バリアー)のようなものを張っていたように思える。
それが故に悪化してしまった経緯があるんだと思う。祖母の時代なら、まず部屋に引き籠ることなんてできなかっただろうね(いやいや状況が違いすぎるでしょ)
 
でも、話を聴けば聴くほど反省したくなるんだ
助けを求めればもっと自分の環境は変わったのかもしれないと考える。
思い返しても仕方のないことなのだけれどね、でもそう思うということはいかに周囲に助けを求めることが大事であるか僕は戒めのように今は心に言い聞かせているし実行する。
 
だから、同じことは繰り返さない。
自分がピンチだと思ったら、いやそう思う前に早めにサインを発するんだ。
 
先ずは友だちでもいい、家族でもいいんだよ
突き放すことなんてきっとしないから、それがあなた自身が作り上げてきた関係性だと思うよ。最終的に自分自身を守れるのは自分しかいないけれど、そのアシストをしてくれるのが周囲の仲間なの!
 
便利になった現代だからこそ、失ったものがある。
人間関係の希薄さではないだろうか、スマホで繋がる、文字を送信すれば事足りる
でも、そうじゃないんだよなぁ、電話でしか感じれない相手の心持ちだったり、不思議と通じ合う何かがあるんだよね。SNSは確かに便利だよ。でも手紙や電話にはない温度感ってないかな?便利さが故に埋没してしまっているように感じるんだ。
 
それこそ戦争の時代に仮にスマホがあったとしましょう
 
「空襲なう」
 
呟いても誰も助けてくれませんからぁぁぁぁ!!
ってか呟いている暇もないでしょう。呟く前に逃げてください!
 
もちろん時代によってコミュニケーションの在り方は変化してきています。
その時、その時代に応じてコミュケーションの手段は変化しています。
 
さて、長くなりましたが、ここで伝えたいことはね
コミュニケーションの手段は変わっても、私たちは言葉を使っている
そして行動によって相手を常に思いやる心を私たちは持っている
 
それはいつの時代も変わらない根源だと思うの。
だから忘れないでね。便利さの中で希薄に感じがちな現代のコミュニケーションも伝え方、発信の仕方一つでね、助けになってくれたりするから。
僕はブログというツールを使って現在も発信しています。なるべく語りかけるように、尋ねかけるように、そうすると不思議と縁は広がっていくんだなと、ブログを初めて1ヶ月ですが感じています。自分から発信していかないと、やっぱりダメなんだね。
受け身の姿勢を否定する訳じゃないよ、受容する立場の人にも役割があって感性がある。
アンテナを張ってこのブログを読んでくださっている。それだけでも僕は感謝したい。
 
だから、発信しましょう。
時代は便利になりました。そのツールを活かさずして次世代の私たちのコミュニケーションの在り方はどうなっていくのか?気薄になっていくのか?濃いものになっていくのか?
 
「昭和は良かったなぁ」
なんて言わせないようにしていきましょうよ
 
「令和だって捨てたもんじゃないですよ!」て
先人に胸を張って伝えられるようにね。
 
髙橋直之

文章に温もりを

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文字にもそれぞれ意味がある。伝えるちから

僕の文章て稚拙なところがあると思うんだよね。

そもそも、レポートでこんな書き方をしていたら評価どころか落第だと思う。

文章には書き方があるんだと思うんだよね。

 

例えば12月ね、例に挙げてみる事項の挨拶

 

寒さに向かう季節、風邪などお召しになりませぬように

向寒の折柄、ご健康にはくれぐれもお気をつけください

忙しい年末を前に、お体に気をつけてお過ごしください伝伝

 
必ず文頭には挨拶があって、健康を気遣う文章や季節に応じた慮る言葉が並び連ねられている。「なんちゃなんちゃらの候お慶び申し上げます」みたいな
 
でもさ
…本当にそう思って書いているの?
 
転職活動は現在のところ失敗続き、企業からの不採用連絡に記されいる氷のような文章。落ちたことを憂いている訳ではない。定型文に読む気が失せるのだよ最近。
 
「今後のご活躍をご期待申し上げます。」…本当にそう思っていますか?
ふ〜んここまでは明らかに私情が入っているので認め直します。
 
さて!!そろそろ年賀状のシーズンですね。
実は僕、3年前から書くことを辞めてしまったんです…悪い子でしょう
人との繋がりは大事とか過去に書いておきながら「お前さんはどうなんだい?」
て突っ込まれて当然です。はい反省しています。
 
英文でも、こうした事項の挨拶に似たようなものがあるように
これは世界共通なのかもしれないと思う。
 
普段、なんとなく交わされる言葉ですが、例えばこれ
ちょっと違和感に感じるのは「お疲れ様です」
 
バイトに入る時、シフトに入る時、先輩への挨拶でなんとなく使っていませんか。
もちろん挨拶をする事は良い事だと僕は思うんだよね。
 
でも、なんとなく使われてしまうのはどうなのかい?
て疑問を抱かずには居られなかったんだよね。『言葉のちから』と言うものを過去の記事に書かせて頂きました。更に言うと『つながり』と言う記事でも言葉による誤解が生じたり、相手を傷つけて関係を崩壊させてしまったエピゾードを話させて頂きました。
 
そうしたことから記事の中で伝えかけてきたことから
やっぱり、なんとなく使うのなら、使わない方が僕はいいんじゃないかな?
と思うの。とても極端な考え方である事は理解しています。
 
だって、転職活動で落選してしまった企業から送られてくるお祈りメール
祈られている感じが全然しませんからぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!
寧ろ墓前で祈られている感じに聞こえてきます(僕だけ?
 
もちろん企業としても機会的に、形式上で送らなけれなならない事は僕も承知しています。でも友だち関係でさ、型式ばった挨拶はいらないでしょう?
いる!て人もいるかもしれないけれど僕はそこまで重きを置いていないんだ。
 
寧ろ、心がこもっているか、いないかを感じる事で僕は判断しているの
 
年賀状や暑中見舞い未だに実は書いている相手が実は少数はおります。
それは過去からの繋がりを断ちたくないからです。
 
でも、そこでは機会的な文章はなるべく避けるようにしています。
謹賀新年←そもそも意味までを深く理解してここに使っている人は居ますか?
居たらごめんなさい。僕は理解せずに使っていました。
 
習慣としては大事だよね。
でもルーチンになっちゃいけないと思うの。
 
僕の知人に毎回会う度に手紙をくれる人が居るんだ。毎回だよ!!
そこには定型分とかそんなものはなく、直向きに僕のことを気遣う文章から温もりを感じずにはいられないんだよね。文字だけでは冷たいと思うの。温度感がないというか。説明は難しいけれど。
 
でもね、最初に書いたけれど僕の文章はとても稚拙です。
でも読んでくれる人が160人います。それは何故でしょう?この文章を読んでくれている人が宇宙のように広い心を持っているか、ビッグバンでも起きて更に広い宇宙のような心を持つ人が読んでくれているのか……切りがない
でも、それだけじゃないと思うの、僕も頑張っているんだ、無職だけれど。
 
読者に対して少しでも熱量が伝わるように直向きな姿勢でこのブログを書いているんだ。生中継みたいな。できるならば右端にLIVEて書き足したいくらいの心境で。
 
一筆入魂なんだよね。そこまで聴くと重く感じられたらごめんなさい。
でも重くないです。とてもふわふわ書いているつもりです。(それもどうかと…)
 
それは何故か、相手に伝えたいことを、
伝わるように創意工夫して綴っているからです。
 
皆さんどうですか?
 
  • 寒さに向かう季節、風邪などお召しになりませぬように
  • 向寒の折柄、ご健康にはくれぐれもお気をつけください
  • 忙しい年末を前に、お体に気をつけてお過ごしください伝伝
 
ここから始まるブログの文章を読みたいと思われますか?
もちろん時と場合に応じた文章の作成が社会人では求められます。そして僕はそれを理解した上で心の中では嘆きながらも冷たい非採用の通知を読んでいます。
 
でも、本当に芯から何かを発信しようとする時に定型的な言葉は必要でしょうか
はい、必要でしょう。でもその先に心がこもっているかどうかが、より人と人とを結びつける豊かにするヒントになるのではないでしょうか。
 
不採用通知…うん、やむを得ないよね形式的な対応だもん
でも日々の生活の中で同じようになんとなぁ〜く「お疲れさまっしたぁぁぁ」みたいな対応はやはり良くないよね。それがその部活または企業の伝統なら仕方ないけれど、言葉というツールを僕ら人間は操る事ができるんだ。それを適当に流してしまってはもったいないよね。言葉には力があるんだよ。
 
僕がここで伝えたいのは、これから始まる年賀状のシーズンで少しでも温度感のある文章をオリジナリティから創出して欲しいの。確かに時間がかかるかもしれない、でも、日本人の伝統として年賀状は年に一度の大切な挨拶になるんだ。
そこで「お疲れっしたぁぁぁ」みたいな文章じゃもったいないよね。税金が上がって今や1通に対して63円だよ!もったいなくないですか!!(問題はお金じゃないです)
 
せっかく一年に一度のコミュニケーションです。
ちょっとオリジナリティを時間がかかってでもいいから出してみませんか。
きっと受取手はあなたの年賀はがきを見るでしょう。そして内容によっては驚くかもしれないし連絡をくれるかもしれないです。日本の伝統として最高の習慣だと僕は思います。あまり難しく考えなくて大丈夫です。『繋がり』思いのままを直向きに文章にしてみてはいかがでしょうか。きっと受け取った相手は幸せな感情になるでしょう。
 
今週末、実は父の三回忌であり祖父の七回忌です。そこでの挨拶も決めています。
時候の挨拶は必要とされるでしょう。でも父の思い出や祖父との思い出を添えることで参列してくださる親族に、「来て良かった」と少しでも感じてもらいたいんだよね。
形式的な挨拶では心を掴めない、だからといってバランスは大事だけれど温度感は持たせたいの日本語って表現が豊かな言語でしょう、だって感じ一文字にも意味があるのだからこれだけ意味力のある言語は少ないと思うんだよね。活用せずにいてはもったいないでしょう。
 
「誰に」「何のために」「何を伝えるのか」
意識して文章や言葉にしてみることで受取手への印象は少し変わってくるんじゃないかな。だって人と人とを結ぶツールだもんね。
 
コミュニケーションの原点もそこに通づるところがあるのではないでしょうか。
 
髙橋直之