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不登校経験を経て社会人となったやつらの発信活動

学校に行かない学校“ホームスクーリング”とは?(enoki)

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家が「学校」?

 
どうも、enokiです。
前回は学校の必要性について書きました。
 
しかし、今度は違う視点で
書いていこうと思います。
 

学校は必要ない?家で学ぶ選択肢

 
     
 
※リンクを踏むとYahooニュースに飛びます。
 
こちらの記事を読めば
今回の私の記事を読む必要はないです笑
 
ざっくばらんに言えば、
学校に行かずに家で学ぶという事。
 
独学ではなく用意されたカリキュラムに沿って、
“保護者が子どもに勉強を教える”という事です。
 
※必要であれば家庭教師のように
チューターを雇うみたいです。
 
この日本語記事では米国で
200万人以上の子どもたちが、
ホームスクーリングで学んでいると
記載されていますね。
※日本語版Wikipediaでも
同じ情報でしたがソース未確認です。
 
 

ホームスクーリングとはなんぞや?

 
 
 
こちらのサイトがおそらく
本拠地というか、
 
ホームスクーリングの
ポータルサイトみたいな感じです。
 
このサイトによると
そもそもアメリカでは、
1850年くらいの頃、
ホームスクーリングは割とメジャーで、
今に始まったことではないとのことですね。
 
ただ、おそらくどの国も
そうかもしれませんが、
 
州や自治体で法として認可が
あったりなかったりするみたいです。
 
アメリカでは全ての州で合法とのことです。
 
他のサイトかもしれませんが、
アメリカの当時(今も?)は
宗教教育が学校毎でバラバラで、
保護者としては学校には
 
任せられないと思って
そういう家庭でも、
流行っていたみたいです。
 
現代だとホームスクーリングと
提携している学校などもあり、
 
行事やスポーツなどの時だけ
登校する等の柔軟性もあるようです。
 
※どの程度の協力校があるかは調べてません
 
学習方法は保護者が
指定の教科書を用いて
学校のように学ぶ方法もあれば、
 
e-learningでインターネットを通じて
学ぶ事もあるそうです。
 
また他のホームスクーリングで
学んでいる子どもで
集まって学ぶ場合もあり、
 
コミュニティスペースのような
場所もあるみたいです。
 
 

どんな子がホームスクーリングで学んでいるのか?

 
 
・そもそも学校の勉強は物足りない子ども
 つまり、飛び級しているようなタイプです。
 
・学校で学べない、学びたくない理由がある子ども
 何らかの事情(いじめ、宗教教育、家庭の事情など)で
学校に通えない、通いたくないタイプです。
 
 アメリカではホームスクーリングで
学んだ子どもが15歳でマサチューセッツ工科大学
合格した例もあるようです(飛び級)。
 
また、アメリカでホームスクーリングが
増加している背景としては
昨今の学校内で起こった
銃乱射事件も背景としてあるそうです。
 
 

日本ではホームスクーリングは可能か

 
 
残念ながら日本は認められておりません。
ホームスクーリングは保護者が教師として、
子どもに教育する制度です。
(Tutorを雇う事も出来ますけれども)
 
日本の場合は仕事と家事に追われていて、
アメリカとは家庭環境が異なるので
厳しいかもしれませんね。
 
しかし、課題はありつつも
魅力もあるのかなと思います。
 
現行の画一的な全体教育を個々人の家庭で
保護者が行うのは難しいと思うので、
学力という意味でバラつきが出る恐れはあります。
 
ただ、それでも家庭で勉強するという事に
メリットを感じる子どもや家庭にとっては
選択肢が増える事はメリットだと思います。
 
 

自分が不登校の頃、もしホームスクーリングが出来るなら

 
 
私は中学生の頃、二年間近く不登校でした。
 
その時もしホームスクーリングという制度
が日本にあったら、活用できたかというと。
 
私の両親が教えるという事は、
出来なかったと思います。
 
何故なら両親は共働きでそんな余裕がないからです。
 
ただ、チューターを外部から雇う事ができれば、
選択肢ていた可能性はあります。
※金額によりますけれども。
 
 

社会性を養うという課題があるのではないか

 
 
ホームスクーリングは
基本的に1対1の関係性です。
 
既存の学校のように
何十人単位の集団ではありません。
 
したがって、社会性を養う事が
既存の学校に比べると
難しいのではないかという疑問はもっともです。
 
おそらく、その疑問は正しいかもしれません。
 
ただ、私の恩師の受け売りですが…。
子どものコミュニケーションには段階があるそうです。
 
おそらく発達心理学の領域だと思います。
専門家の方がいらっしゃいましたら
ご教示頂ければ幸いです。
 
まず子どもと母親(父親)。
そして家族や親族、その後、友達や社会です。
 
何より大切なのは最初の一歩だそうです。
 
つまり、母親や父親とコミュニケーションが取れなければ、
他人とのコミュニケーションにも影響が出るとのこと。
※両親との関係性が悪い=コミュニケーションが苦手ではありません。
 
ただ、もしコミュニケーションが
苦手と感じるならば自分の家庭内の関係性を省みて、
そこから踏み出すと良いそうです。
 
それを踏まえて考えるのであれば、
保護者と子どもが教育を通じて
 
コミュニケーションを密に図るというのは
社会性を養うといっても良いのかもしれません。
 
保護者と子どもの健全な関係性という強固な柱があれば、
対外的なコミュニケーションも図れるのではないでしょうか。
 
 

まとめ

 
 
さて、今回はホームスクーリングについて書きました。
私自身も読者の方から頂いたコメントで知ったので、
不勉強な部分があったらご指摘頂ければ修正いたします。
 
さてさて…。
 
”学校にいかない“という事が
昨今の選択肢として
台頭して来ていると感じています。
 
ホームスクーリングは
保護者だけで行う場合でも、
保護者が教育放棄などをしないように
州によってルールが設けられて、
 
定期テストや報告書など第三者
確認をするようにしているみたいですね。
 
日本でもフリースクール
適応指導教室など“第3の学校”
のような存在が増えています。
 
もし法律で“第3の学校”が
既存の公立や私立の学校と
同じだと認められた場合は、
それはホームスクーリングに
近い存在になるのかもしれません。
 
その場合、教育の質の保証が
されなければならないと思います。
 
※お詫び
Twitterが消えてしまったので、
また改めて何かしらのSNSを作る予定です…。
 
フォローしてくださった方、
申し訳ございません。
よろしくお願いいたします。
 
enoki

教育の可能性とゆらぎ②

 

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本当に義務教育は保証されているの?

こんにちは、たっきーです。
皆さまいかがお過ごしですか。風邪をひかれないように祈ります。
 
さて今回もこのテーマで深掘りをしていきます。
義務教育の持つポテンシャルは前回から綴ってきましたが、逆に義務教育のもつ盲点を見ていきたいと思います。僕は決して義務教育を否定する立場ではありません。現場で勤しむ先生方のご苦労をお察しします。
 
しかしがら、どうしても、日本の教育制度に疑問を投げかけずにはいられないのです。
前回、義務教育の持つ役割や素晴らしさをブログに記述させて頂きました。
 
しかしながら義務教育にはやはり盲点があります。
発展途上国からしてみればとても贅沢な悩みかもしれませんが、日本経済の足踏みに合わせるにはそうせざるを得ないのです。日本は豊かです。豊かでありながら大きな課題を抱えています。そう、『不登校』の問題です。
発展途上国からしてみれば贅沢な悩みかもしれません。でも学校に通いたくない子どもが不特定多数いるのが現実です。僕もその一人でした。
 
義務教育がいかに重要な役割を果たし、効果を発揮しているかも今は理解できます。
しかしながら集団で学ぶ以上、その集団に溶け込まないといけないのです。その集団から弾かれてしまったらなかなか戻ることができません。
 
そう、現在の教育にはエスカレーターのようなものがあり、その流れに乗れない者は弾かれてしまう、そんな吹聴が無きにしも非ずなのです。
 
僕はADHDという特性を持っていました。多動性の傾向が強く、思ったこと口にせずにはいられませんでした。それが故に周囲から浮き始め、いじめにもあいました。最終的にはひとりぼっちになり、学校へいくことをやめてしまいました。
 
しかしながら、ADHDという特性を知ったのも大人になってからで、小学生の頃はまだ自分の特性について理解できなかったんです。理解できなかった期間、僕はひとりぼっちになりながらも自分が何故こんな事になってしまうのかずっと考えながら苦しんでいました。
 
今の僕は、大人の僕は当時を振り返ると教育現場では集団行動が求められます。集団に馴染めないと、または集団を好まない場合、義務教育の現場(現代日本の学校教育)が適さない子どももいることも事実としてあるのではないのかなと思います。
 
僕の体験談に過ぎませんが、とても当時はとても悩みました。
子どもは学校へ行くのが仕事のようなもの、学校へ行かないものはろくな大人になれないと言われ続けてきました。当時はそれが本当に苦しくて学校にも家にも居場所がないようなそんな気持ちでした。自分の居場所はどこにあるのかな…
 
僕はひとりぼっちで部屋に篭ることがせいいっぱいの抵抗でした。
 
そんな子どもがいるんですね。僕以外にも様々な事情から学校へ通えない子どもがいます。
 
そんな時、どうしたらいいの?
最近は民間で放課後等デイサービスや、フリースクールが増えてきました。
僕もそこでボランティアをしたり、働いた経験があります。
 
子どもたちの居場所が学校以外にも選択肢が与えられる時代になってきたようにも感じます。でもそこで、疑問に思うことは学校(義務教育の現場)に馴染めない子はそうした他の民間のフリースクールや放課後等デイサービスに完全に委ねられてしまうのか。
 
フリースクールも放課後等デイサービスも利用するにはお金がかかります。
義務教育とは異なり有料です。そうなってくると経済的な問題からそうした選択肢さえ選べない子どももいます。
 
義務教育は平等に子どもたちが安心して学べる権利を保障する機関です。
でも、近年はそこに馴染めない子は他の場所で学ぶという選択肢が良い意味でも悪い意味でも利用されています。
 
義務教育の現場に馴染めない子は他に行きなさい。
 
そのような流れが当たり前になることを僕は若干恐れています。
前回、お話しした義務教育の果たす役割が崩壊してくる可能性があるんです。
 
でも、確かに現場では先生も問題を抱えた子どもを見きれるような余裕があるかというと、そうではないですよね。授業の準備から部活まで幅広く業務に携わっています。先生の目が行き届かないケースも理解できなくはないんです。
でも、それを理由に子どもたちが義務教育に馴染めない場合は他の教育施設に送られるような流れが作り出されるのは少し疑問に感じるんです。
 
そうなってくると義務教育の現場って一体なんだろう?
 
という、疑問が僕の中では最近浮かんでくるんです。
 
良く言えば子どもたちにとって学べる場所の選択肢が増える一方で、義務教育の本質的な役割が揺らぎつつあるのではないかなと今回のブログでは問いを投げてみました。
 
皆さんはいかがでしょうか。
 

教育の可能性とゆらぎ①

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本当にこれでいいの?
 
こんにちは、たっきーです。
寒い日々が続いてますね。とは言っても暖かくなったり寒くなったりの繰り返しで、洋服のチョイスに迷う日々です。迷うほど服を持っていないのですが笑
皆さんも体調管理にはお気をつけくださいね。
 
今回の記事のテーマは今後の教育の在り方に着いて切り込んでみようと思います。
先ず皆さん教育機関と聞いて何が思い浮かびます?
 
学校
家庭教師?
 
まだありますよ。
「家」もれっきとした教育の場所です。家庭教育、大事ですよ。
 
それこそ外に出たら全てが教育の場所
公園で遊ぶことも、子ども同士が社会性を身につけるためには必要な場所であり機会ですね。
 
このように教育と言うととても幅広くなります。
近年では学校教育以外での比重がとても重視されつつあるように感じます。
だって、高校生になると多くの人が予備校に通いますよね。
小学生だって、習い事をしたり、塾に通ったり学校教育以外の現場で子どもが学ぶ機会がとても増えています。前回の僕の記事ではそうした外部での教育の比重が大きくなり、本当に学校は必要なの?て問いを投げかけました。
僕の結論は学校(義務教育)は必要である。と書きました。
 
でもちょっと心配なんですよね、最近
学校教育以外の現場で子どもが学ぶ機会が本当に増えています。
予備校に通わないと名門校に入れない?
習い事をして得意な分野を伸ばしてみたい?
 
やっぱり学校教育では個性や得意分野を伸ばすことがちょっと難しいように思えるんですね。勉強もれっきとした特技です。勉強ができるという特技を伸ばすにも予備校は必要ですよね。学校だけでは足りない部分があるから予備校に通うんでしょう。
 
趣味でサッカーや野球を始めるお子さんもいますね。
将来はプロスポーツプレイヤーを夢見て始めるお子さんも多いですよね。
これもやっぱり学校の教育では補いきれないから習い事を始めるのかな?
 
そう考えていくと、やっぱり個性を伸ばそうとする環境として学校教育(義務教育)は対応しきれていないのでは?という疑問が拭いきれません。
でも前回、書いた通り僕の意見は学校(義務教育)は必要なんです。
 
日本の識字率は世界でもトップクラスです。
識字率とは文字を理解できる能力のことです。
この識字率発展途上国になるととても低い水準になります。
識字率が低いと起こり得る問題とは何か、児童労働や格差社会の拡大ですね。
 
文字を理解できない、会話できないことにより
できることが制限されます。学校へは通えずに泣く泣く働く子どもたちも居ます。
そうした広い視野で世界を見通すと日本では、そうしたことは一切ないですよね。
児童労働なんてもってのほか!!ってくらいですね。
子どもは学校へ通い、学問を学ぶという風習が根付いていることは世界的にみても素晴らしいことだと僕は思うんです。そしてそれを可能にしているのが義務教育という存在です。最低限必要なことはここで学ばせてくれます。文字の読み方、計算の方法、生活に必要最低限度、必要とされる能力を養わせてくれるのが学校教育という現場なんです。
 
そう思うと、日本てすごいと思いませんか。
 
でもこのブログの表題にも書いた通り日本の教育には課題が山積しています。
必要最低限度の教育は保障してくれます。が冒頭で述べたように個性伸ばしてくれるような教育は義務教育では補い切れていないのが現状です。
 
なぜ、塾へ通うんですか?
なぜ、習い事へ通うんですか?
 
学校(義務教育)では補いきれないじゃないんですか?という問いに行き着くんですね。
本当は日本の学校教育だけでも十分なはずなのに、なぜか日本人が求めてします更なる高みへ。基本的なことができればいいはずなのに、どんどんハードルが上がっていく…
偏差値という数値が出てくる。「成績をあげなきゃ」追われる感覚で勉強を始める。
 
十分じゃない?僕からしてみたら。文字が読めるだけで、計算ができるだけで、生きていく上で必要なスキルを身につけている。十分でしょう。
 
でも高みを目指そうとする。何故?
就職を筆頭に将来に紐付いているからなんですかね。
 
何のために学ぶのか、何のために勉強するのか。
僕にはまだまだわからないことだらけです。もちろん将来のためなのでしょう。
でも教育の根本的な役割とは何なのか今一度振り返ってみたいものではないでしょうか。
 
髙橋直之

学校は本当に必要なのだろうか(enoki)

 

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どうも、enokiです。
 
あっという間に1年が過ぎて2020年の1月も、
瞬く間に過ぎていくんだろうなと思います。
 
インフルエンザも流行っているみたいなので、
体調管理には気をつけてくださいね。
 
さて、今回は、
以前のタッキーの記事と同じテーマで、
私の視点で書いてみようと思います。
 
似ているところもあれば違うところも
あるかもしれませんが…。
 
ぜひ両方読んで頂いて
御意見を頂戴出来れば幸いです。  続きを読む

学校は本当に必要なのだろうか?②

 

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学校へ通う必要性はなんだろうか?

こんにちは、たっきーです。
前回は途中でブログを分けてしまいました。
 
表題に沿って学校の必要性にとって問いを投げかけたまま
しかし僕は最後に学校(義務教育)は必要でしょう。
 
と締めくくりました。
やっぱり僕にとってだけでなく学校は必要なのだと感じます。
人生で初めて社会に触れる体験の場所が用意されているのだから。
 
でも、この問いは捨てずにいられません。アマルティア・セン教授の言葉を借りて
日本の教育では『人間の安全保障』は義務教育の間に限って保障されているが 、個の『潜在能力の発掘』までは達成できていないのではないだろうか?(これは僕の持論です
 
人間の安全保障とは大事なものです。
平等に教育を受けられる権利が日本にはあることがとても評価できる点だと思います。
誰でも学校に通える学校。実は珍しいんですね世界的に見たらさ。
 
教育を受けられることで識字率も高い推移を示しています。日本の学力が年々下がっているというニュースを耳にしますが、正直それはここでは言及せずに、学力以前に生活に必要な知識を基本的な部分に限って義務教育によって日本は保障しているんです。
これは素晴らしいと思いますし僕は無くさないで欲しいと考えております。
 
でもねぇ、日本の義務教育に僕は問いを投げました。
 
何故か。
義務教育に通えていない子ども達はどうしているの?
 
僕は何度も書いてきましたが、適応できなかったことから学校へ通うことを拒みました。
結果、引きこもりとなり、心を病み、学校へ通わなかったんです。
 
僕以外のケースでも学校へ通えていないケースは多数存在します。
学校へ通わないことが悪いという吹聴がまだ拭切れていない2000年代初頭の話です。
でも、今も変わらないのではないでしょうか…
 
通信簿がありますね?
成績表とも呼ばれますが、それがその子の行末に繋がってしまうんです。
それを発行しているのは学校しかないんです。
 
日本の教育は義務教育に馴染める人にしか出世できないとも言い切れません。
じゃあ、馴染めなかった子達はどうしているのさ…
 
近年、教育においても、とても幅広い考え方が増えてきました。
学校に通わなくても他に居場所がある。フリースクールや放課後等デイサービスの充実です。
こちらの図をご覧ください。
 

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利用者が急増していることは否めません。
その背景には何があるのでしょうか。
それは僕が一番危惧していることであるのですが、学校(義務教育)がその環境に馴染めない子が義務教育の現場では受け入れ切れないよ。という姿勢に変わらないか、ということです。
 
教育現場でも先生の過酷な労働環境を危惧されていることも近年言われ続けています。
教育現場には余裕がないんです。余裕がないから全体主義に走ってしまう連鎖。
僕はそれが根本的に日本の教育を危ぶんでいるのではないでしょうか。
 
余裕がない以上、対応し切れない児童については民間に委ねるしかない。
それが先ほど挙げた放課後等デイサービスが増え続ける背景ではないでしょうか。
 
学校に通うことを諦める
学校以外に居場所がある
学校に通わなくても義務教育は卒業できる
 
その通りです。
でも、何故僕は学校(義務教育)が必要と思うのか。
それはね。冒頭にも述べましたが学校は子どもたちが初めて触れる社会の場です。
そして尚且つ、平等に教育を受けるという権利を僕らは持っているんです。
世界的に見たらとても日本は恵まれています。
 
『世界がもし100人の村だったら』(2001年池田香代子C・ダグラス・ラミス
もし100人の村人だったら大学まで学問を修めることができるのは1人しかいません。
 
でも、これに対して日本の大学進学率は約55%です。
とても高いですね。世界的に見たら日本の教育システムは充実しているんです。
この傾向は変えないで頂きたいと僕は考えています。
 
しかしながら今、日本の教育システムは揺らいでいます。
それは先ほど挙げた民間の教育機関の台頭です。これにより学校以外の教育機関の必要性や重要性が増加しているんです。皆さんも通ったことがありませんか、塾や予備校…
 
ここで生じてくるのは経済的事由による教育格差です。
日本の義務教育が揺らいでいるのは、義務教育ではまかないきれない子どもたちが、そうした環境に身を置く傾向にあるということです。更には、放課後等デイサービスにおいては障がいを抱える子どもに対して1割の負担で通えるようにする政策を打ち立てました。
それにより、学校では抱えきれない障がいを抱えた子どもは放課後等デイサービス等の民間機関に委ねられていく傾向にあるんですね。
 
学校(義務教育)のシステムはとても先進的で且つ重要な役割を担っていると僕は考えています。しかし、民間機関の台頭によってそもそも学校(義務教育)の立場が揺らぎつつあるのが現実です。抱えきれない、馴染めない子どもは外部機関に委ねられる。
 
『人間の安全保障』の一部である教育を受けるという平等に与えられた権利が揺らぎつつあるのが事実です。そして日本の学校(義務教育)における課題点個の『潜在能力の発掘』までは達成できていない。については民間機関に委ねるという吹聴に変わってきてしまっているように僕は感じずにはいられないんです。
 
学校(義務教育)は必要です。平等に教育を受けられる機会を守るために。
しかし、義務教育に馴染めない子供たちは民間機関に委ねられる流れが見えてきています。皆さまはどう感じられるでしょうか。僕は日本の教育というものが揺らぐのではないかと不安を隠しきれません。もちろん、子どもの居場所が増えることは前向きに評価したいです。でも学校(義務教育)がその環境に馴染めない子どもたちを見捨てて欲しくはないんですね。
 
さて次回は別のテーマに移りたいと思います。
放課後等デイサービスが広がる中で、今後の教育の可能性と危機について書きすすめたいと思います。今日も読んでくださりありがとうございました。
 
髙橋直之
 

学校は本当に必要なのだろうか?①

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こんにちは、たっきーです!!
お正月も終わり、仕事始め、学校始めという方もいらっしゃるのではないでしょうか。
あまりご無理はなさらずに今年もほどほどに頑張りましょう。
 
最適なのは自分の居心地です。
居心地が悪いなと思ったら環境を変えてみる選択肢も悪いことではありません。
長期休み明けですから、ナイーブになってしまう方も多いと思います。本当にご無理はなさらないでくださいね。ほどほどにいきましょう!!
 
さて今回のテーマは義務教育に対して切り込んでいく内容になります。
もしかしたら、これをお読みになっている方の中には学校関係の方もいらっしゃるかもしれませんが平等な視点で僕はブログを更新していきます。題材だけにどうかお気を悪くされませんように最後までお読み頂けたら幸いです。
 
僕が引きこもりの時に読んでいた本の中で好きな経済学者がいます。
有名な先生なのでご存知の方もいらっしゃるかもしれません。
アマルティア・セン先生という方です。
 
この方は資本主義経済を俯瞰して幅広い視点で本を書かれています。その中でも貧困や倫理といった功利主義の経済に問いを投げかける学者です。
 
日本経済は正に功利主義ではないでしょうか。過去のブログにも資本主義経済が故に過当競争が社会に生じてしまい、それが学生にも波風を立たせているということを書かせて頂きました。受験戦争に勝てないものは将来は安泰ではない。企業間でも争い、学校間でも争い、日本の教育というものは競争の中にあるものなのか?という疑問を投げています。
アマルティア・センさんはそうした経済にいち早く気づき問いを投げた学者です。特に教育においても言及された本も過去に幾多とあります。
 
その中で共通する主張は『人間の安全保障』と『潜在能力の発掘』です。
資本主義経済の加速により、世界は競争の波に飲み込まれました。今や株式の浮き沈みが世界経済の行先を決めていると言っても過言ではありません。もちろん社会主義を提唱する国もありますが、企業が存在するためには企業価値が必要とたります。
 
GAFAは皆さまご存知でしょうか。世界を代表する企業の名前の頭文字をとってそう呼ばれています。GはGoogle、AはAmazon、FはFacebook、AはAppleです。これらの企業が先陣を切っていく中で他の大手企業も追うように経済競争を繰り広げています。
 
時代というものは目まぐるしく変化していきます。10年前まではこうした上位を占める企業も下火でした。IT企業の中でもハード面を得意とする会社が先陣を切っていましたが今やソフト面が重視される時代です。新しいサービスを提供するためにはPCの開発からアプリ開発へと変化していったんですね。たった10年間の間でもこれだけの変化が生じています。追いかけようとしたってなかなか追いつかないものです。
 
最近になって日本でもプログラミング教育が始まりましたね。
習い事として教室を開いてもどこの教室もいっぱいらしいです。今後もIT企業が社会を先導し続けると見越してか教育現場においても今や一人に一台のパソコンやタブレットが導入される学校も増えてきています。これが現代の潮流なのでしょうか。現場の先生方も教えることが増えて大変そうです。特にご年配の先生方にはプログラミングはなかなか理解し難いものでしょう。教育現場でのプログラミング教育は活きてくるのか疑問の多いところです。
 
さて、皆さんは何故、学校に通うんでしょうか。
友だちと遊ぶため?成績のため?なんとなく義務だから…
日本の教育機関としての役割は賛否両論ありますが充実していると思います。
先生方の負担の上で成り立っているものですが、小学生から中学生までの9年間、平等に教育を受けられるというのは世界水準からみても平均以上であると思います。
 
ただ今回のブログのテーマですが本当に学校が必要なのだろうか。
この問いは私が体現しています。私は小学校の高学年から中学3年間学校へ通うことができませんでした。でも私は今、会社に務めております。立派な大人とまでは言えませんが人並みの生活を送ることができています。ここで僕は疑問に感じたんです。僕は何を学校で学んだんだろう。得たものは一体なんなんだろう。
もちろん小中学校の先生へのご恩は忘れられません。しかしながら学校に行けない(行かない)人でも子ども成長できているんです。
 
ここで、冒頭でご紹介したアマルティア・セン先生の言葉を引用します。
日本の教育では『人間の安全保障』は義務教育の間に限って保障されているが 、個の『潜在能力の発掘』までは達成できていないのではないだろうか?(これは僕の持論です)
 
『人間の安全保障』とは貧困や格差等に関係なく平等に受けられる人間としての尊厳ある文化活動の保障を示しています。確かに日本では義務教育により識字率は98.2%と他国と比較してとても高く教育の充実度の高さを証明しています。しかしながら、それは義務教育期間に限っての話で高校進学率は文部科学省の最新のデータでは約90%、大学の進学率に至っては約60%です。教育を受けたいという者が必要な教育を受けられる体制は整っていると考えても良いデータだと僕は思います。因みに韓国、イギリス、アメリカ、ロシアでは大学進学率が70%ではありますが大学卒業率に至っては日本と変わりはありません。
 
この記事では深く掘り下げませんが、日本でも貧困や家庭環境により進学を辞退する人も一定数あるのも実情です。昨年度、東京都が都立高校の無償化を提言しましたが、私立高校は無償化されません。成績優秀者だけが都立高校に通える環境になることは否めません。貧困層では私学に通うことも、放課後に塾へ通うこともできません。一層、学力格差が生じることが見込まれるだろうと僕は考えております。
 
しかしながら、高校進学率も90%と高い推移であることから教育環境の保障は他国に比べて充実しているのかと考えられます。
 
しかし、ここからが僕の問いです。
日本の教育において個の『潜在能力の発掘』についてはどうでしょうか?
僕は義務教育が保障されている環境でも学校へ通う選択をしませんでした。いじめられるからです。時には人格を否定されて、仲間(同級生)から受け入れてもらえなかったからです。日本の教育では集団行動を意識しているような気がします。僕はそうした環境に馴染めませんでした。多動性の傾向がありどうしても45分または、90分の授業に堪えることができなかったんです。集団に溶け込めなかった僕は引きこもりになりました。
この一連の流れを憂いている訳ではありません。僕の経験を淡々と書いてみています。
 
現在では私を含めてASD等、何かしらの障がいを抱えていて学校へ通えない児童に向けて適応指導教室や放課後等デイサービスにより、子どもの居場所が多様化してきました。それにより個々に対する教育においては民間が担っているように見えます。
 
ここで重要なのが日本の学校教育では個の『潜在能力の発掘』または個性というものを受け入れ切れていない現状があるのではないでしょうか。僕が不登校だった時代と現代の学校の教育方針に変化はありません。民間により、学校という環境に適応できない児童や生徒の受け皿が充実してきたようにしか僕には見えませんでした。
 
さて、ここで皆さんに問いかけます。
本当に学校(義務教育)は必要なのでしょうか。
 
僕は学校へ通わずにして大人になり、人間としては周囲の支えもあって成長できました。
現代では適応指導教室に通うことで、認定教室においては必要な単位を取得することができます。義務教育(学校)に通わずして卒業できてしまう制度があります。
 
学校って必要ないんじゃない?
 
でもね、ここでの僕の結論は、学校(義務教育)は必要じゃないかな。
 
と最後に締めたいと思います。何故か?
 
 
理由についてはまた、次回のブログ更新時に綴っていきたいと思います。
 
飽くまで僕の持論です。データの参照元は下記に添付しておきますね。
長い文章を最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
 
参照
大学進学率をグラフ化してみる
ノーベル経済学者アマルティア・セン教授が語る「人権」と「義務」
 
髙橋直之

“大人になれない”私の叫び(enoki)

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お久しぶりです。
enokiです。
 
あけましておめでとうございます!
 
長らく更新せずに失礼致しました。
その間、更新をし続けてくれたタッキーに感謝しています。
 
また、不定期とはいえど、
だいぶ筆を執るのが遅くなってしまい申し訳ございません。
 
さて、復帰後記念すべき1記事目は私の人間性について、
書いていこうと思います。
 
同じような性格で生きづらさを感じていたり、
似たような経験がある方がいれば教えてほしいです。
 
さて、大人になれない私の叫びと表題に書きましたが、
私はたまに「きみは子どものように素直だね」と言われます。
タッキーからは「大人になりなよ」と言われることがあります。
 
皆さんは大人になるってどういうことだと思いますか
 
私は最近、吉本ばななさんという方の「おとなになるってどんなこと?」
という本を読みました。(ちくまプリマー新書
 
この本は吉本さんのエッセイで過去の経験などが書かれています。
 
そこでは吉本さんが“中学生の頃、怪我をした時に父親と祖母が病院に連れてきた時の帰り道“が、
大人になった瞬間だと書かれていました。
 
“父親は娘なのだから病院に連れてくるのは当たり前としても、
わざわざ祖母は遠方から私の為に貴重な時間を割いて来てくれた”
 
そう思って”病院の出口で祖母の荷物を持った“そうです。
その荷物がまた重くて、さらに感謝したとのことです。
 
まだ途中までしか読んでいないのと手元にないのでうろ覚えで間違いがあったら、
申し訳ございません。
 
ここから読み取れるのは大人になる事とはそれまで当たり前に支えられていた事に気づき、
感謝して、自分も相手を支えようと出来る事、でしょうか。
 
ここからは私の考えですが、”大人になる“ってとても曖昧な言葉だと思うんです。
 
この本でいう”大人になった瞬間“ときっと今この記事を読んでいるあなたのもの、
そして私やタッキーのものはそれぞれ違うものだと思います。
 
そして”大人“というのもきっとそれぞれ違うんです。
 
ただ、曖昧だけど何となく共通認識であるものだと思います。
 
※念の為、申し上げますがこの吉本ばななさんの体験や本は素晴らしいです!大人になるきっかけとして、共感しています。
 
だから、私は大人になれと言われてもどうなればいいのかわかりません。
きっとその言った相手から見て、求められている事を返せていないんだろうなと思います。
 
私は他者とぶつかることが嫌いです。
 
だから、ぶつかりそうになったら、
すぐに尻尾を巻いて逃げます。
 
あるいは誰にもいないところに閉じこもります。
 
他者とぶつかることが嫌いなのは、
自分を否定されたくないからです。
 
あなたは、自分を大人だとおもいますか。
 
20歳を超えれば社会的には大人になります。
日本はどこかの部族のように大人になる為の儀礼は存在しません。
(成人式…?はて)
 
だから、きっと大人になったと感じるきっかけというのは、
みんな違うか、あるいはまだないかもしれません。
 
そんな混沌とした私の頭の中で葛藤がある中、
中学時代、不登校だった時にお世話になった恩師に会いました。
 
彼は当時、唯一、私に「それは辛いことだね」と言ってくれた大人です。
 
今は教員を続けながら大学院で不登校支援について、
研究論文を書いています。
 
私は「すごいですね」と素直に言いました。
 
彼は「でも不安ばかりなんだ」と言いました。
 
私は驚きました。
 
今年で定年して何十年も社会人として生きてきて、
さらに大学院で論文まで書いているのに「不安」だと言うんです。
 
からしたらそんなに頑張って結果も出しているのに、
何が不安なんだと思いました。
 
彼は言いました。
 
「enoki君と私は同じだよ。いくつになっても、昔と同じような事を悩むんだ。そしてそれは何か意味がある。だから悩むんだ」
 
なんというか、少し肩が軽くなりました。
 
社会の中で、あるいは友達の中で、家族の中で、自分がどこに立っているのか、どこに向かって歩いているのか、社会的に大人になると誰も教えてくれません。
 
自分のゴールというものは、自分で決めなければ行けなくなる。
 
そんな中で、色々な人たちに様々な事を言われます。
 
それは本当にあなたの事を考えてくれているものもあれば、
他の目的があって言ってくるものもあるでしょう。
 
私はそれに流されやすいと思います。
そして何が正解なのか、何が私はしたいのか、わからなくなる。
 
今も社会の波の中に、私は身を置いています。
 
私が叫びたいのは“他人の大人という概念に当てはめられたくない”という事です。
 
それは私が自分で見つけるものだと思うからです。
 
例え、その結果として私を嫌う人がいても、
それは仕方ないのだと思います。
 
全ての人に好かれることは不可能です。
 
私はこの生き方を変えることは出来ない。
 
でも、筋は通さなければいけないんだと思います。
 
私は20代後半に差し掛かっているのに、
いまだに他人と自分の間をふらふらしています。
 
あなたはどうですか。
 
enoki