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不登校経験を経て社会人となったやつらの発信活動

自分の責任にし過ぎないこと

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責任という言葉に対してどう皆さんは考えますか

こんにちは、たっきーです。
2月は久々の更新になります。みなさまお元気でしたか。
インフルエンザやコロナ等、とても不安なニュースを耳にしますね。
皆さま十分にご自愛ください。
 
さて、今回のテーマは自分の責任にしないこと
実はこの前、友人にこれとは全く正反対の言葉をかけられました。
 
じゃあ何故、今回はこのようなテーマにしたのかというと
不登校の時に悩んでいる時にずっと、自己嫌悪に陥っていた時期がありました。
そのことから子どものうちくらいは誰かの責任に転嫁してしまってもいいのでは?
と思ったからです。
 
僕は今は大人です。
どうしても家族が残した大きな借金などに許せない気持ちが拭きれませんでした。
そんな時に責任を転嫁しようとしても大人ではできません。
嘆いても、家族を恨んでも、何も始まりませんし、誰も助けを求めてくれません。
むしろ、どんどん悪い方向へと進んでしまいます。
 
そう言った意味で僕は大人なんだからと
「責任転嫁するのは何も良いものを呼ばないよ」
と声をかけてくれたのだと思います。とてもその人には感謝しています。
 
でも、子どもにとっては変えられない環境ってありますよね。
この提案は甘い考え方かもしれませんが、子どもの頃の僕は責任転嫁することが大嫌いなプライドの高い性格でした。でも子ども自身の力で変えられることや、できることって少ないですよね。親に頼るか、先生に頼るか、友達に頼るか。
 
でも、もしこのブログを読んでいる人がひとりぼっちで誰にも頼れない状態にあるのならば根本的な解決になるかわ分かりませんが、一瞬は自分の責任を放棄していいと思うんです。
 
例えば
学校でのいじめに耐え続けているのならば
学校へ通いたくないと意思表示しても良いと思う。
 
家で引きこもりになっている人がこれを読んでいたら
外の世界に無理に触れようとしないで自分のペースや都合を第一に考えてしまっても良いと思う。無理して学校へ行かなければいけない訳ではないし、世界から自分を孤立させてまで引きこもることはないんだ。前々回の投稿でenokiがホームスクーリングの考え方を提案していましたね。社会という枠組みに囚われずに、自分の都合を優先してみたら少し世界が広がると僕は思うんだけれどな。
 
責任感が強ければ強い人ほど、青春時代悩みを抱える人が多いと思います。
でも、その責任のやり場を全て自分に持ってきてしまったら自分が苦しくなってしまうだけだと僕は思うんです。「学生のうちは責任を放棄することだっていい」もちろん、やり方はあるかもしれない。何かの実行委員をしていて責任ある立場であるのに、無連絡で活動を休んでしまったら味方を失ってしまうかもしれない。そういう時に責任転嫁という考え方を選んでみてください。もちろん全てをそうしてしまうと自分の将来のためにはあまりよろしくないかもしれません。でも少しくらい自分に甘えたり、先生や親に甘えることができるのだとしたら。責任転嫁してもいいのではないでしょうか。
 
これは飽くまで四面楚歌の状態でどうにもこうにも行かない時の対処法です。
一番良くないのは自分で責任を抱えて抱えて抱えすぎてしまってパンクしてしまうこと。
そうならないための若い頃なら少しは許されるかな?甘い考え方ではありますが、自分に責任を抱え込みすぎないようにしましょう。
 
自分を責めても何も生みません。
自分を責めても成長には繋がりません。
起き上がることが成長に繋がることで起き上がれなくなるまで抱えてしまっては
ご自分があまりにもかわいそうではありませんか。
 
もちろん、大人になったら責任転嫁なんてできなくなっていきます。
全くできない訳ではありませんが、社会的に信用を失うことになりかねません。
 
じゃぁさ、大人には逃げ道はないのかよ!!
 
そのために学生のうちに上手く立ち回る術を身につけるのが大事なんです。
責任転嫁にも方法があると先ほどもお話ししましたね。
大人になったら責任は全て自分に降りかかってきます。でもそこで上手く立ち回れるように学生のうちに責任との向き合い方を上手にすることが大人になっても苦労しないことに繋がるかもしれませんね。少しずるい考え方かもしれませんが、ずるくても、格好悪くても良いんです。ただ他人に大きな迷惑をかけないように、第一に自分を大切にできるように僕は責任転嫁の手段もあるのだと、提案したいまでなんです。
 
自分をまずは大切にしよう。
自分に優しくなろう。
 
責任感が強い人ほど苦手かもしれませんが、これも社会で上手く波に乗る練習ですね。
 
髙橋直之

認知と知覚の違い(enoki)

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どうもどうも。
enokiです。


気が遠くなるほど昔に学んだような気がする認知と知覚の違いについて書いてみます。


素人なので「本当なの?」と疑いの目を忘れずにこの記事を読んでくださいませ。


※ここでいう「認知」とは心理学などで用いる言葉であって法律的な「認知」ではありません。


1.そもそも知覚とは


「知覚」という言葉は聞いたことがあるでしょうか。痛覚とか味覚とかと同じ感覚の仲間ですね。


そもそも「知覚」とは何でしょうか。


例えば子どもがカブトムシを見たとします。
長いツノがあって、硬い甲羅がある虫だからカブトムシ!みたいな感じで知覚します。


2.そもそも認知とは


「認知」という言葉は聞いたことがあるでしょうか。学生なら「認知心理学」とか「認知行動療法」とかもしかしたら耳にする事もあるかもしれませんね。


そもそも「認知」とは何でしょうか。


例えば私がカブトムシを見たとします。

長いツノがあって硬い甲羅があって【茶色くてわさわさしてて、気持ち悪い!】カブトムシだ!


【】の部分が認知です。

 

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こんな感じで図のような流れで、

私(脳)はモノを認識します。

 

3.認知のゆがみ

 

認知は色眼鏡みたいなもので、強いストレスや不安によってゆがんでしまったりします。

 

先ほどの例でいえば、子どもから見ればカッコいいカブトムシも、私の苦手意識というレンズを通すと気持ち悪いという認識になります。

 

私がカブトムシを気持ち悪いと思うのは、おそらく色や形が人類の天敵であるGと似ているからです。

 

認知のゆがみは日常生活にも影響がある可能性が高く、自分が感じている様々なことは、実はゆがんだレンズを通している結果かもしれません。

 

4.まとめ

 

いかがでしたでしょうか。

 

知覚はどちからというと感覚的なことで、認知はモノの捉え方、心の動きと言えるかもしれませんね。

 

また、認知行動療法という精神治療の手法がありますが、まさに認知のゆがみを調整することで思考のバランスをとっていくものです。

 

もし苦手なものや嫌いなものがあったら、それは過去に経験したストレスによって影響を受けた結果かもしれません。

 

本日は以上です。

ありがとうございました。
 

ひとりぼっちの気持ち

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ひとりぼっちの気持ち
こんにちは、たっきーです。
先日の投稿でブログ60日目を迎えることができました。
250人を超えるフォロワーの皆さまのおかげであると思います。
本当にありがとうございます。
 
今回は、率直に自分が過去に感じた体験談について綴りたいと思います。
 
”ひとりぼっちの気持ち”
 
僕は孤立から離れられない生活を送っていました。
学生の頃、小学校、中学校、高校、大学、仲間はいたけれど、友だちは居たけれど
なかなかグループの輪に馴染めない僕でした。
 
ひとりぼっちって案外清々しいかったりするものです。
ただ、どこかぬぐい切れない寂しさが僕の中にはありました。
どうせなら、輪の中に入りたいのに…
どうせなら、たくさんの友だちに囲まれてワイワイしたいのに
 
そんな気持ちが僕の中を常に過っていました。
当時を振り返ると強がりな気持ちもあったように感じます。
自分は一人でも生きていけるような…一匹狼を気取っていたように感じます。
 
でも、そうするしかなかったのが本音です。
どうしても輪に入れない…入ろうとすると失敗して傷つくか、自分が疲れてしまうか。
 
とても矛盾している感情だと思います。ひとりぼっちじゃ嫌なのに、集団に加わろうとすると自分が疲れてしまうんです。なんと言うか…釈然としない自分でした。
 
でも、その気持ちを誰に相談しようか?
考えた時に僕にはなかなか相談相手がいなかったんです。
もちろん、友だちは居たけれど、この気持ちを伝えたら裏切ってしまいそうでなかなか打ち明けられずにいました。でも、どことなく孤立心の強い自分が居て…寂しい
そんな感情が僕の心を常に過っていました。
 
今いる、友人にはとても感謝しています。
僕の中では大切なパートナーでした。でもこの、どことなく感じる”ひとりぼっちの自分”
僕は寂しがり屋なのかと思うけれど、ただそれだけではない。今思い返すと相談できる友達がその当時にいなかったのだと振り返っています。
相談できなかった訳ではない。ただ自分が遠慮していたのかもしれないし、相手を気遣って相談できなかったことがあったんだと思います。
 
孤立感を拭きれない自分に叱咤したこともありました。
しっかりしなきゃ!!と、でもそれはそれで今は違うように感じるんです。
 
孤立感という感情はどうしても拭きれないものです。
特に学生時代、集団行動の中に置かれた自分に孤立感を感じるというものは相当なストレスでした。クラスと馴染めなかったり、仲の良い友達が、他のグループに行ってしまったり。人間として小さいかもしれませんが、そんな些細なことで傷ついていた僕がいたんです。なんとも形容し難い気持ちですが僕はその時、ひとりぼっちだな、そう感じていたことは確かでした。そして、それは、その当時の僕にとって相当なストレスだったと思います。
 
ここで書きたいことは、過去の恨みや辛みではありません。
でも、ひとりぼっちと感じる瞬間が僕にあったことを事実としてこのブログに残したいと思いました。ひとりぼっちって辛いですよね…
僕は中学生の時、それが原因となって不登校になりました。誰も味方をしてくれない、誰も近寄ってくれない、そんな時がとても辛かったのです。
 
でも今は恐れ大きながらもひとりぼっちと感じる瞬間はありません。
友達、仲間と言える存在が遠からずも近からずもいるからです。大学生になって、そして社会に出て世間の広さを遅からずして知りました。
 
自分にはこんな仲間がいるんだ!!!
そう、思えたのは大学生になってからでした。もちろん高校時代もいたけれど…
世の中はこんなにカラフルで素敵な世界だと知ったのが大学生でした。
 
その時感じたことは、世界は思いの外広いということです。
今自分の置かれている環境よりも、もっと広い世界が僕を私たちを待っていることです。
想像以上に世界は広いんんだ。
 
日本、以外でもいいんだよ
地球全体で考えたらあなたにフィットした居場所があるかもしれません。
ハードルは高いように感じるでしょう。初めはね。でも皆んな同じ人間だからさ。
 
髙橋直之

不登校の経験を今後に活かすこと

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頑張る君へ
こんにちは、たっきーです。
寒くなったり、暖かくなったり、不思議な天候ですね。
新型ウィルスも流行っているそうなので、皆さま健康にはご自愛ください。
 
さて、今回のブログは自分の過去の経験を今後に活かす、というテーマで書き進めたいと思います。まず、不登校の経験があったことに対しては今は否定的に考えておりません。
寧ろ不登校の経験があったからこそ、今の僕があり、人との繋がりがあるのだと考えています。正直、今の僕には不登校や引きこもりとは無縁の精神状況かもしれません。
 
でもなぜ、ブログを書き続けるのかというと
過去に自分が味わった苦い経験や辛かったことを共有することで、現在苦しんでいる人に対して少しでも支えになれればと考えているからです。とても差し出がましいことかもしれませんが、僕はなかなか出会いに恵まれませんでした。っと言うよりも、自分から出会いを作ろうとしていく姿勢が欠けていたように過去を振り返るんです。
僕の本心は人見知りで、目立つのを嫌うタイプです。自分から話していくかと言うとそうでもなく引っ込み思案でなかなかグループに溶け込めないタイプの人間です。今の僕を知る人にこんな話をすると「あり得ない!!」と一蹴されてしまいそうですが、僕の根幹は本当は弱虫だし勇気がなくて人とのコミュニケーションが苦手なんです。
 
それもそのはずで、やはり過去の経験があるからです。
いじめでした。なかなかグループに馴染めず一人ぼっちの日々、ひとりぼっちになりたいかと言うとそうではなく、寂しがりやで誰かと一緒にいたいと言うのが本音でした。でも僕は引っ込み思案でどうしてもグループに加わることができない…いつの間にか取り残されている。そんなことが日常茶飯事でした。
人との関わり方が分からなかったんです。そこでたくさんの失敗もしたし、苦い経験もありました。だから、どうしても過去のトラウマが僕の根幹にはあるんです。
 
じゃあどうして?今こんなにブログを書いているの?発信しているの?
それは冒頭にも書きましたが過去の経験をこれからに活かしたいと考えたからなんです。
失敗もたくさん繰り返してきたし、迷惑をかけた人も数えきれません。でもその中で学びがあり、少しずつ僕は社会に溶け込む術を学んできました。いばらの道と言っても過言ではありません。その過程では不登校にもなり、引きこもりにもなり、世の中なんてどーでもいい!!なんて思ってしまった時期を経て今があります。
 
一見すると負の思い出、過去とされますが
僕はあえてそれらの経験を公にすることで、こう言うやつもいるんだな、と少しでも現在、苦しんでいる人の立場に立ちたいと考えたんです。
 
僕には負の経験があるようで、その経験があるからこそ、僕は今苦しんでいる人の立場に少しでも寄り添えるのではないかと思いこのブログを常に更新を続けています。
 
本当に今振り返ると「アホやったなぁ」と言う経験も沢山あります。恥ずかしい思い出を赤裸々に公にすることは正直、勇気が入りました。
 
そう、その勇気。過去の僕が社会と繋がる一歩を踏み出せなかった勇気を、今ここで僕は踏み出したいと考えてブログを書いているんです。
 
ブログの読者から「勇気」があるね。と言われることがあります。
でも本当は僕に勇気はないんです。でもない勇気を振り絞ってここには僕の事実を赤裸々に語っています。この記事を読んでくれた人が少しでも気持ち的に楽になれるような、そんな居場所のようなブログにしたいと考えています。
 
大袈裟なことを書いているようですが、僕にできることはただ文字にするだけです。
でもいじめられている人の気持ちはいじめられた経験のある人にしか分からないし
引きこもりの人の気持ちは引きこもりの経験がある人にしか分からないと思うんよ。
 
もちろんまたそこから、十人十色でそれぞれの事情を抱えていて、確実にその人(苦しんでいる人)の芯まで届けるかは分かりません。
 
極論ですが
『僕の気持ちは僕にしか分からないんです』
 
その個々の抱える事情にいかに寄り添える媒体になれるかが、このブログの挑戦です。
そして僕の過去を負の経験だけで終わらせずに、誰かの役に立てたならば御の字な訳です。
 
ちょっとこう言う書き方をすると自分本意の自己満足に捉えられてしまうかもしれませんね。でも、それでもいいんです。僕が書かなくて誰が書くの?
 
僕の気持ちは僕にしか分からない
だからその気持ちをここに赤裸々に公開することで誰かの気持ちに寄り添いたいと思ったのです。それが11月から始まり、現在は3ヶ月目です。読者も250人の方に支えられるブログにまで皆さまのお陰様で成長できました。
読者の中か、それとも読者にならずとも隠れ読者として、このブログを読んでくださった方の中でちょっとでも気持ちが楽になった方がいたら幸いです。
 
これからも僕は過去を赤裸々に投稿していく予定です。
投稿頻度は少なくなりましたが、できる限り今を強く生きている人に届く言葉をここに記したいと思っています。不束な文章ですが今後ともご一読頂けたら幸いです。
 
今後ともよろしくお願いいたします。
質問や相談も受け付けます。お気軽にコメントなどくださいね。
 
髙橋直之
 

不登校やASDの疑いを誰に相談する?

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学校と医療の現場をもっと近く

こんにちは、たっきーです!
1月もいよいよ今日が最終日ですね。明日からは2月になります。
 
今年は暖冬とは言いますが関東甲信を中心に雪が降るなど不思議な天気が続いておりますが皆さま、いかがお過ごしでしょうか。僕は友だちに会いに屋久島まで2週間ほど旅をしていました。その旅の中で出会いがあり、その方と話した内容で感じたことをここに共有したいと思います。
 
僕は鹿児島から車で九州を周遊しながら、帰っていました。
途中、立ち寄った場所が大分県竹田市でとても素敵なまちの雰囲気と歴史の根付く奥ゆかしさのある場所でした。その日、滞在した夜に、ある精神科医の先生と同席する機会がありました。
 
その先生が仰るには、
不登校や引きこもりで悩む家族やご本人が精神科に受診するまでにはとても高いハードルがある」
 
確かにそうだな、と僕は感じました。
精神科に通うことすら世の中では否定的な印象が少なくはありません。私の通う精神科でも、とても個人情報には慎重な扱いで患者の名前をそのまま呼ぶのではなく、その日のカルテの番号で呼び出されるシステムになっているほどです。
 
もしも自分の子どもが、もしも自分自身が不登校やコミュニケーションで悩んでいる時に誰に相談すればいいのでしょうか。現状、学校では担任の先生か、保健室の先生に止まるのが一般的ではあると思います。私立学校などでは臨床心理士が常駐しているケースもありますが、ごく稀なケースであると思います。
 
僕自身が不登校で悩んだ時、相談できる相手がいませんでした。
自分の不登校体験談を出会った精神科医をしていらっしゃる先生に打ち明けたところ、早めに精神科医に受診することで医学的な知見からアドバイスができると話していました。
そして、そうした悩みを抱える子どもや子どもを抱える家族の多さに警鐘を鳴らしていました。
 
僕自身も精神科に通うようになったのは大人になってからで、子どもの頃は全く選択肢にありませんでした。大人になってから通おうとしたきっかけは自分にASDの疑いがあるのではないかと考えたことがきっかけでした。そこに気づくまで多くの苦悩と家族や友人、身の回りの人へも迷惑をかけてきたと思います。
僕ももっと早く自分の特性に気づくことができたら、そうした過去も変わってきたのではないかなと考えました。
 
精神科の先生もできる限り、敷居を低くしようと講演会や啓発運動を行っているそうです。少しでも不登校やコミュニケーションに悩みを抱える子どもが少なくなることを願っているとのことでした。でもなかなか精神科への受診までは結びつかないのが現状です。
 
そうした先生がいるんだなぁ、と僕は感心していました。
教育カウンセラーや相談員は確かに居ます。しかし医学的な知見により症状を緩和させたり、個々の症状に応じたアドバイスや的確な治療ができることは事実です。
確かに自分が何かの病気であることを認めたくないし、ましてや精神に疾患を抱えていることを突き付けられると正直、受け入れ難くもあり、そうした気持ちが精神科への受診から遠ざけることは僕も理解できなくはありません。
 
その先生の結論としは医学連携を強化したいとのことでした。医療と学校の連携を強化することで個々の疾患に適切なアドバイスもでき、更には現場(先生方)の負担を減らすことができると言います。
 
成長期の子どもにとって思春期という非常に繊細な時期であることは分かります。
しかし、医療という新しい尺度で個々への対応を柔軟に行っていくことで引きこもりや、いじめ、不登校などの問題を少なくできるのではないかと提案します。
 
結果として、どんな人でも生きやすい世の中になるように僕はこの意見に共感しました。
 
髙橋直之

学校に行かない学校“ホームスクーリング”とは?(enoki)

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家が「学校」?

 
どうも、enokiです。
前回は学校の必要性について書きました。
 
しかし、今度は違う視点で
書いていこうと思います。
 

学校は必要ない?家で学ぶ選択肢

 
     
 
※リンクを踏むとYahooニュースに飛びます。
 
こちらの記事を読めば
今回の私の記事を読む必要はないです笑
 
ざっくばらんに言えば、
学校に行かずに家で学ぶという事。
 
独学ではなく用意されたカリキュラムに沿って、
“保護者が子どもに勉強を教える”という事です。
 
※必要であれば家庭教師のように
チューターを雇うみたいです。
 
この日本語記事では米国で
200万人以上の子どもたちが、
ホームスクーリングで学んでいると
記載されていますね。
※日本語版Wikipediaでも
同じ情報でしたがソース未確認です。
 
 

ホームスクーリングとはなんぞや?

 
 
 
こちらのサイトがおそらく
本拠地というか、
 
ホームスクーリングの
ポータルサイトみたいな感じです。
 
このサイトによると
そもそもアメリカでは、
1850年くらいの頃、
ホームスクーリングは割とメジャーで、
今に始まったことではないとのことですね。
 
ただ、おそらくどの国も
そうかもしれませんが、
 
州や自治体で法として認可が
あったりなかったりするみたいです。
 
アメリカでは全ての州で合法とのことです。
 
他のサイトかもしれませんが、
アメリカの当時(今も?)は
宗教教育が学校毎でバラバラで、
保護者としては学校には
 
任せられないと思って
そういう家庭でも、
流行っていたみたいです。
 
現代だとホームスクーリングと
提携している学校などもあり、
 
行事やスポーツなどの時だけ
登校する等の柔軟性もあるようです。
 
※どの程度の協力校があるかは調べてません
 
学習方法は保護者が
指定の教科書を用いて
学校のように学ぶ方法もあれば、
 
e-learningでインターネットを通じて
学ぶ事もあるそうです。
 
また他のホームスクーリングで
学んでいる子どもで
集まって学ぶ場合もあり、
 
コミュニティスペースのような
場所もあるみたいです。
 
 

どんな子がホームスクーリングで学んでいるのか?

 
 
・そもそも学校の勉強は物足りない子ども
 つまり、飛び級しているようなタイプです。
 
・学校で学べない、学びたくない理由がある子ども
 何らかの事情(いじめ、宗教教育、家庭の事情など)で
学校に通えない、通いたくないタイプです。
 
 アメリカではホームスクーリングで
学んだ子どもが15歳でマサチューセッツ工科大学
合格した例もあるようです(飛び級)。
 
また、アメリカでホームスクーリングが
増加している背景としては
昨今の学校内で起こった
銃乱射事件も背景としてあるそうです。
 
 

日本ではホームスクーリングは可能か

 
 
残念ながら日本は認められておりません。
ホームスクーリングは保護者が教師として、
子どもに教育する制度です。
(Tutorを雇う事も出来ますけれども)
 
日本の場合は仕事と家事に追われていて、
アメリカとは家庭環境が異なるので
厳しいかもしれませんね。
 
しかし、課題はありつつも
魅力もあるのかなと思います。
 
現行の画一的な全体教育を個々人の家庭で
保護者が行うのは難しいと思うので、
学力という意味でバラつきが出る恐れはあります。
 
ただ、それでも家庭で勉強するという事に
メリットを感じる子どもや家庭にとっては
選択肢が増える事はメリットだと思います。
 
 

自分が不登校の頃、もしホームスクーリングが出来るなら

 
 
私は中学生の頃、二年間近く不登校でした。
 
その時もしホームスクーリングという制度
が日本にあったら、活用できたかというと。
 
私の両親が教えるという事は、
出来なかったと思います。
 
何故なら両親は共働きでそんな余裕がないからです。
 
ただ、チューターを外部から雇う事ができれば、
選択肢ていた可能性はあります。
※金額によりますけれども。
 
 

社会性を養うという課題があるのではないか

 
 
ホームスクーリングは
基本的に1対1の関係性です。
 
既存の学校のように
何十人単位の集団ではありません。
 
したがって、社会性を養う事が
既存の学校に比べると
難しいのではないかという疑問はもっともです。
 
おそらく、その疑問は正しいかもしれません。
 
ただ、私の恩師の受け売りですが…。
子どものコミュニケーションには段階があるそうです。
 
おそらく発達心理学の領域だと思います。
専門家の方がいらっしゃいましたら
ご教示頂ければ幸いです。
 
まず子どもと母親(父親)。
そして家族や親族、その後、友達や社会です。
 
何より大切なのは最初の一歩だそうです。
 
つまり、母親や父親とコミュニケーションが取れなければ、
他人とのコミュニケーションにも影響が出るとのこと。
※両親との関係性が悪い=コミュニケーションが苦手ではありません。
 
ただ、もしコミュニケーションが
苦手と感じるならば自分の家庭内の関係性を省みて、
そこから踏み出すと良いそうです。
 
それを踏まえて考えるのであれば、
保護者と子どもが教育を通じて
 
コミュニケーションを密に図るというのは
社会性を養うといっても良いのかもしれません。
 
保護者と子どもの健全な関係性という強固な柱があれば、
対外的なコミュニケーションも図れるのではないでしょうか。
 
 

まとめ

 
 
さて、今回はホームスクーリングについて書きました。
私自身も読者の方から頂いたコメントで知ったので、
不勉強な部分があったらご指摘頂ければ修正いたします。
 
さてさて…。
 
”学校にいかない“という事が
昨今の選択肢として
台頭して来ていると感じています。
 
ホームスクーリングは
保護者だけで行う場合でも、
保護者が教育放棄などをしないように
州によってルールが設けられて、
 
定期テストや報告書など第三者
確認をするようにしているみたいですね。
 
日本でもフリースクール
適応指導教室など“第3の学校”
のような存在が増えています。
 
もし法律で“第3の学校”が
既存の公立や私立の学校と
同じだと認められた場合は、
それはホームスクーリングに
近い存在になるのかもしれません。
 
その場合、教育の質の保証が
されなければならないと思います。
 
※お詫び
Twitterが消えてしまったので、
また改めて何かしらのSNSを作る予定です…。
 
フォローしてくださった方、
申し訳ございません。
よろしくお願いいたします。
 
enoki

教育の可能性とゆらぎ②

 

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本当に義務教育は保証されているの?

こんにちは、たっきーです。
皆さまいかがお過ごしですか。風邪をひかれないように祈ります。
 
さて今回もこのテーマで深掘りをしていきます。
義務教育の持つポテンシャルは前回から綴ってきましたが、逆に義務教育のもつ盲点を見ていきたいと思います。僕は決して義務教育を否定する立場ではありません。現場で勤しむ先生方のご苦労をお察しします。
 
しかしがら、どうしても、日本の教育制度に疑問を投げかけずにはいられないのです。
前回、義務教育の持つ役割や素晴らしさをブログに記述させて頂きました。
 
しかしながら義務教育にはやはり盲点があります。
発展途上国からしてみればとても贅沢な悩みかもしれませんが、日本経済の足踏みに合わせるにはそうせざるを得ないのです。日本は豊かです。豊かでありながら大きな課題を抱えています。そう、『不登校』の問題です。
発展途上国からしてみれば贅沢な悩みかもしれません。でも学校に通いたくない子どもが不特定多数いるのが現実です。僕もその一人でした。
 
義務教育がいかに重要な役割を果たし、効果を発揮しているかも今は理解できます。
しかしながら集団で学ぶ以上、その集団に溶け込まないといけないのです。その集団から弾かれてしまったらなかなか戻ることができません。
 
そう、現在の教育にはエスカレーターのようなものがあり、その流れに乗れない者は弾かれてしまう、そんな吹聴が無きにしも非ずなのです。
 
僕はADHDという特性を持っていました。多動性の傾向が強く、思ったこと口にせずにはいられませんでした。それが故に周囲から浮き始め、いじめにもあいました。最終的にはひとりぼっちになり、学校へいくことをやめてしまいました。
 
しかしながら、ADHDという特性を知ったのも大人になってからで、小学生の頃はまだ自分の特性について理解できなかったんです。理解できなかった期間、僕はひとりぼっちになりながらも自分が何故こんな事になってしまうのかずっと考えながら苦しんでいました。
 
今の僕は、大人の僕は当時を振り返ると教育現場では集団行動が求められます。集団に馴染めないと、または集団を好まない場合、義務教育の現場(現代日本の学校教育)が適さない子どももいることも事実としてあるのではないのかなと思います。
 
僕の体験談に過ぎませんが、とても当時はとても悩みました。
子どもは学校へ行くのが仕事のようなもの、学校へ行かないものはろくな大人になれないと言われ続けてきました。当時はそれが本当に苦しくて学校にも家にも居場所がないようなそんな気持ちでした。自分の居場所はどこにあるのかな…
 
僕はひとりぼっちで部屋に篭ることがせいいっぱいの抵抗でした。
 
そんな子どもがいるんですね。僕以外にも様々な事情から学校へ通えない子どもがいます。
 
そんな時、どうしたらいいの?
最近は民間で放課後等デイサービスや、フリースクールが増えてきました。
僕もそこでボランティアをしたり、働いた経験があります。
 
子どもたちの居場所が学校以外にも選択肢が与えられる時代になってきたようにも感じます。でもそこで、疑問に思うことは学校(義務教育の現場)に馴染めない子はそうした他の民間のフリースクールや放課後等デイサービスに完全に委ねられてしまうのか。
 
フリースクールも放課後等デイサービスも利用するにはお金がかかります。
義務教育とは異なり有料です。そうなってくると経済的な問題からそうした選択肢さえ選べない子どももいます。
 
義務教育は平等に子どもたちが安心して学べる権利を保障する機関です。
でも、近年はそこに馴染めない子は他の場所で学ぶという選択肢が良い意味でも悪い意味でも利用されています。
 
義務教育の現場に馴染めない子は他に行きなさい。
 
そのような流れが当たり前になることを僕は若干恐れています。
前回、お話しした義務教育の果たす役割が崩壊してくる可能性があるんです。
 
でも、確かに現場では先生も問題を抱えた子どもを見きれるような余裕があるかというと、そうではないですよね。授業の準備から部活まで幅広く業務に携わっています。先生の目が行き届かないケースも理解できなくはないんです。
でも、それを理由に子どもたちが義務教育に馴染めない場合は他の教育施設に送られるような流れが作り出されるのは少し疑問に感じるんです。
 
そうなってくると義務教育の現場って一体なんだろう?
 
という、疑問が僕の中では最近浮かんでくるんです。
 
良く言えば子どもたちにとって学べる場所の選択肢が増える一方で、義務教育の本質的な役割が揺らぎつつあるのではないかなと今回のブログでは問いを投げてみました。
 
皆さんはいかがでしょうか。