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不登校経験を経て社会人となったやつらの発信活動

いじめを受けても

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ひとりぼっちで抱え込まないで

こんにちは、たっきーです。
 
今回の表題はストレートにしました。
そしてそのまま書きます。
 
僕は過去にいじめがきっかけで不登校になった経験がありました。
捉え方によりますが逃げちゃった訳ですね。
でも自分を守るための逃げはありです!僕は今でもそう思います。
 
逃げることに対して否定的に捉えている人が多くいると思います。しかし、逃げるというのは生きるための選択肢と考えたら有効だとおもうんです。
 
なんのために生まれてきたのか?
 
それは様々な回答のある問いですが僕は生まれてきたからには人生を謳歌してほしいなと考えています。
 
謳歌するとは、簡単に言ってしまえば楽しむということ。いじめや孤独感に苛まれているとしたら人生がもったいないとかんじるんです。いつまでもその境遇に耐え続けてストレスを溜めてしまっては人生楽しめていないことがもったいないと感じるんです。
 
だから、別の環境に移ること、逃げる事は恥ではなく自分の人生を豊かにするための選択肢だと考えてみてください。
そうすると敗走感はあまり感じないと思います。
 
生き方は人それぞれです。
僕は社会人で挫折を経験して精神を病むまで働き続けました。しかし、結果として精神病を患い2年間、露頭に迷い20代の貴重な時間を無駄にしてしまった気がします。
 
そこから学んだんです。
もしも自分に合わない環境だと思ったら自分の意思で環境を変えていい。自分の意思なのだから逃げでもなんでもないんです。
むしろ自分を守るため、人生を楽しむためのせんたくなんです。
 
だから、これだけは絶対にしないでね。
 
いじめを受けても決してやり返さないこと。
堪えろ!というわけではなく、同じように釣られて相手の挑発に乗ったら相手の思う壺だし、同じ立場になってしまいます。
 
殴られたって、殴り返さないように
侮辱されても侮辱しないように
 
じゃあ救いがないじゃないか!!
そんな時は逃げるが勝ちです。
 
無理してそんな相手や環境と付き合う必要はないですし、そのために自分の手を汚してしまったら味方がいなくなってしまいます。
 
これは自論ですが
どこかに必ずあなたの味方になってくれる人がいます。僕がブログをつづけているのも孤独感やいじめから耐えかねている人の味方になりたいからという理由もあります。
 
僕には過去、いじめを受けて
その事実を親や先生にも相談できずにひとりぼっちで悩み、考えた時がありました。
その時は本当に辛かった。味方がいないのもそうだし、自尊心の高い僕はなんとか自分のプライドを守ろうと取り繕っていました。
 
でも、今となってはプライドなんてどうでもいい。それよりも味方を作ることが何よりも自分という存在を認めてくれる。プライドなんかより遥かに強い証人ができること。
それを思い知ったんです。
 
そんな人が必ず同じ学校で同じグループにいる確率なんてとても低いです。器用ならば自らそうした環境でも仲間を作っていける。そうした力も将来的には必要だけど、スタートラインは一緒でもコミュニケーション能力の成長には差があります。元々そうした力に長けている人には有利な環境だけど、苦手な人にはとても苦しく感じると思います。
 
僕は苦手なタイプだったので
置いてきぼりのひとりぼっちの経験を繰り返していました。
あん時は辛かったし寂しかったなぁ。
 
そこで、僕は高校進学の時に環境を変えたんです。通信制の高校に通いましたがそこには多くのバックグラウンドを抱えた人がいました。似たような悩みや経験をしている人がたくさんいました。
 
最初は通信制の高校へ通うことをためらったけれど、今となってはたくさんの味方が出来て良かったと思えます。
また、通信制へ通うにあたって必ず通る関門は親への告白(そうだん)自分がいじめに遭っていたことやひとりぼっちだったことを理由に伝えなければならなかった。
でもその頃には自尊心もプライドもないボロボロの状態だった。もっと早くに相談すればフリースクールやホームスクリング等といった選択肢があったんだ。
 
だからボロボロになるまで、頑張り過ぎないで、耐えないで、本音を話す勇気はとても大きなものだけれど、耐え続けて耐え続けて自分を押し殺してしまうよりか気持ちとしては早く楽になれると思います。
 
いじめはひとりぼっちでは解決できない問題です。大人も子どもも同じです。
先ずは家族や先生に、それが難しかったら信用できる第三者に相談してみてください。よければこのブログへのコメントや僕への直接メッセージで相談でもいいです。
 
まずは、一人で悩まないでくださいね。
 
髙橋直之

失敗しないと成功はないんだ。

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こんにちは、たっきーです。
 
先日仕事に復帰しましたが、またヘルニアを悪化させてしまいました。出張先でカニ🦀を買ってしまったのが原因です。
 
家族が夜通し看病してくれたお礼にと買ったカニ…氷が溶けるにつれて地味に重たくなるそれを宅配を使わずに持ち帰ったのがダメでした。普通、宅配にするよね笑
図らずまたそれが原因でヘルニアをこじらせるとはなんていうか、僕はアホです。
 
そんな状態で悔しくもまたベッドから抜けられない生活が4日続いてます。自分の健康状態を過信してはいけませんね。
ちょっと良くなったからと無理は禁物ということを、また失敗から学びました。
 
僕は失敗からしか学べない人間です。
他人の意見というものを聴かない頑固さが故に起こす失敗がほとんどです。
 
傲慢というか、身勝手というか
とにかく自分でやってみて身を呈して痛感しないと学ばない節があります。一方で、その性格から行動派と周りから一目置かれる存在になったのは、頑固さを通り越したための副産物みたいなものでした。
 
自分が損するかしないかでは五分五分です。
ですが全てにおいて自己責任となるリスキーな手法でもあります。
 
リスクマネジメントを考えなければならない社会人としては僕は失格です。もう少し後先を考えて行動することが大事だと言われてきました。そして今もベッドの上で痛みに耐えながらアホだなぁ、と身に染みて学んでいます。
 
でも、元からこういう性格ではありませんでした。小さい頃は石橋を叩いて叩いて結局渡らない引っ込み思案な人間でした。自分に自信が持てていなかったのと、失敗を何より恐れていたからです。
特に誰かに嫌われたくないと気持ちを内側へと抱え込んでいく性格でした。今から考えたら正反対でしょう笑
 
でもその性格も自分が損するか得するかというと五分五分で、結局は自分を抑え込むのでストレスを抱え込む反面、面倒ごとには巻き込まれなかったという側面もありました。
 
でもねー、僕の場合は極端な一例で
自分を抑え込んでいた時期は辛かったし
たまに気持ちが爆発してコントロール出来なくて喧嘩してしまったり、気持ちを少しずつ表に出そうとしたけれど、それも下手で相手を傷つけてしまったり。いじめの原因を作ってしまったり、と中途半端な人間でした。
 
でも、それでも精一杯だったんだよね。
気持ちを上手くコントロールできないことや、相手への気持ちの伝え方が分からなかっったり、今となっては自分の特性なんだと理解はできたけれど、中途半端に自分を小出しにするくらいならば、自分の考えを貫こうという思考に変化していったんです。
 
それが、いじめが原因でひきこもり、ずっと一人で考え抜いた自分なりの防衛手段でした。もちろん、高校生の時に自由奔放に活動した分、その仇は大きかったです。
友だちに、これでもかというくらいに注意されました。
 
でも、それが僕にとっては社会勉強になり失敗から学ぶことを繰り返したことで、まだまだ頑固さのある角ばった意思ですが、学生時代という川に流されたり飲まれたりして、少しはまぁるい意思に変わっていったと感じます。
 
この文章で伝えたいことは
失敗してもいいから、学生のうちはどんな結果になろうとも社会勉強になるということ。
 
大人になってから失敗すると、直ぐに信用も失うし人脈もなくなります。学生のうちはまだその取り返しがつくというだけでも強みであるということ。
 
失敗して、絶望感を味わったり
友達を失うようなことがあったり
自分なんかいなくてもいい!なんて感じたり
 
そんな経験があっても大人になってからは、その全ての経験が活きてくるんだよね。
 
だから、もし今のあなたが失敗したり挫折を経験して辛い状況にあったとしても、それは将来成功するための過程であると考えて欲しい。難しいかもしれないけどね。
 
逆に考えたら挑戦も何もしなければ失敗も挫折だって経験しません。それだけ頑張ってきた結果だと、頑張った過程の自分を褒め称えてください。
 
そうして前向きに捉えることで次の一歩に前進できます。人間としても成長できます。
学生、てやっぱり良かったなと僕は未だに感じます。社会勉強がノーリスクに近い環境でできる。
 
失敗を恐れずにガンガン挑戦しちゃいましょう。あなたがやりたいことはなんですか?
小さいことでもいい、趣味でもいい。
何もしないよりか何かをした方が人生豊かになると僕は思います。
 
未だに失敗を繰り返し続ける僕からの言葉には説得力は薄いかもしれませんが、失敗した数と成功した経験値は誰にも負けません笑
 
これもまた頑固の現れかな、僕の悪い癖😋
 

夢というものがなくても

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際限無く広がる未来にワクワクできる自分になれたら人生もっと楽しくなるんかな
こんにちは、たっきーです。
 
僕って今は社会人しているけれど、学生の頃は明確な夢というものがありませんでした。
高校生の頃、描いていた自分の将来はというと国際人になり、世界を渡り歩きたいなぁ、とザックリ考えていたくらいです。国際問題と言えば話題が尽きませんもんね。
 
でも今の僕は社会人を一度挫折し、また再挑戦しようとしているのが現実です。
そう、夢と現実は大きくかけ離れたものになっていました。
 
それでも自分は、自分を否定したくないと考えています。
一度挑戦したことは、迷いなく自分の軌跡となっているんです。失敗や挫折、そうした経験が今の僕を育ててくれているんだと考えています。
 
周りには夢があっていいなぁ、と羨ましいと思う時もあるでしょう。
妬ましくも感じる時もあるでしょう。
 
でもさ、将来、自分がどうなるかは学生時代にどれだけの悩みや葛藤を抱えたかで変わってきます。その時は辛いはずです。でもその葛藤を乗り越えてこそ将来の自分があるのだと僕は思います。
 
明確な目標がないということは際限無く何にでもなれるともとらえられます。
 
夢はなくてもいい。
 
でも、迷いは沢山あった方がいいと思います。
例えば、自分には夢がない、それでも周りに影響されて迷って、自分の将来図を自然と考えるようになると思うんです。確かにピカピカな夢があり、目標がある人は羨ましいと思うし、青春しているなぁと感じることもあるでしょう。
 
それでも、仮に自分の中が空っぽでも周囲に妬ましさを感じないで欲しいんです。
夢や目標がなくてもいいじゃないか!だってそれは今から見つけるものではあるし、ちょっと遅れたって僕は良いと思うんです。自分のやりたいことが見つかった時、その時が自分が輝く瞬間であると思います。
 
夢というものがなくてもいいじゃないか。
 
それは見つけるもので、探すもので、元から描けている人は恵まれている環境だとわりきって良いと思います。
親の期待や自己実現の焦りから、夢は生まれるものではないと思うんです。
 
僕自身は、社会人の今になっても明確な目標や夢というものが見つかっていません。
フラフラしているなぁと思われるかもしれませんが、でも事実なんです。
僕自身夢や目標を描けていないのだから、それはそれで説得力がないかもしれませんね。
 
それでも、常に僕は夢を探し続けています。
たまには面倒な悩みを引き受けたり、自分自身で抱え込んだり、迷いを繰り返しながらも夢というものを探し続けていました。でも途中で思ったんです。
 
夢というものがなくたって良いんじゃないか?
 
自己実現という意味では、葛藤が残る部分がありますが、でも無理に夢という仮想の将来に囚われている自分もどうなのかなと思ったんです。夢なんてなくても良いじゃないか、それよりも、自分が楽しく生きれる人生を考えようと思えたんです。
 
あなたにとって楽しい人生とはなんですか?
 
たった一度しかない人生ですから、その人生を楽しまないともったいないと僕は思うんです。それを教えてくれた人が僕にはいました。人生一度きり!楽しむしかないっしょ!って。
 
無理に将来の夢を描こうとしなくてもいいんじゃないかな?
ちょっとフラフラしてみても僕は良いと思います。人の生き方に正解はありません。
 
自分自身が最終的に納得できればそれでいいと思うんです。
正解はないです。と同時に不正解もないんよ。つまり何をしても自分の責任ではあるけれども人生に不正解はないということです。
 
もしも、将来に困っているのなら
何にでも挑戦してみることだと僕は思います。
成功や失敗から学ぶことは大きいです。特に失敗から学ぶことはかけがえのない財産です。何が自分にとって正しい道か分からない、そんな時はガムシャラに色々なことに挑戦してみることが一番だと思います。僕自身、そうでした。
夢がなかなか見つからなくて、色々な方向に手を差し伸ばしていました。
実際、今も模索中ですが、でも無駄と感じた経験は一つもありません。どんな経験も今の僕にはとても欠かせないものになっています。もちろん、その中には失敗した経験も数多くありますが、それでもその失敗を次に活かせばただの失敗では終わりません。財産になります。
 
夢というものがなくてもいいじゃないか
 
逆にそれは無限の可能性を秘めている裏返しです。
自分には何ができるのか、可能性は常に無限大です。諦めずに挑戦し続けることで見えてくる目標があるかもしれません。
 
人生は最大の課題です。
自分のゴールをどこに定めるのか、とてもそれは難しい選択です。
でも失敗しても、成功しても、最終的に価値のない人生はないと思うんです。
みんな精一杯生きているからです。
 
その証が人生の夢や価値となると思うんです。
小さなことでもいい、みんなが総理大臣になれというわけでもないっしょ(笑
 
夢はつくるものでは無く、見えてくるものだと僕は考えています。
もちろん受動的ではダメです。能動的に動いてこそ、自分の目標が見えてくるものだと信じています。だから無理に夢を語らなくても大丈夫だよ。
 
そのうち、そのうちに、自分が頑張っていれば、悩み、葛藤していれば見えてくるものだから。予め用意された夢はないんです。
 
自分の汗と涙が、夢や目標になっていくんだと僕は今までの経験から感じています。
さぁ、あなたも探してみませんか?楽しい人生の過ごし方を。
 
僕たちはそれを応援したいです。
 
髙橋直之

心機一転しても過去とは地続きだけれども

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どうもどうも、enokiです。

 

もはや流行語大賞待ったなしの「コロナウィルス」ですね。

 

潜伏期間が27日とかいう情報もあって戦々恐々としていますが、手洗いうがいマスクくらいしか出来ないので半ば諦めています。

 

最近、乾いた咳がたまに出るので戦々恐々としております。花粉症もあるのでどちらともいえませんが。(花粉症はくしゃみなんだよね)

 

とにかく、お気をつけて。

 

今回は社会に出てみて思う事について書いてみたいと思います。

 

結論から申し上げますと、新しいことを初めても誰もいない未開の地に足を運んでも、その生活のどこかで過去と繋がりがあるということです。

 

これは外から繋がりを感じる時もあれば、自分の中から繋がりを感じる時もあります。特に今は自分の内から繋がりを感じています。

 

人生の物事は色々ありますが

・突発的、刹那的なこと

・積み重ねていくこと

だいたいこの2つな気がします。

 

突発的とか直感的なことでうまくいく事もあれば、どんなに挑戦してもダメなことってありますよね。

 

どんなに挑戦してもダメなことって、積み重ねとか継続だと思うんです。

 

失敗して覚えるというか、ゲームだとしんで(ゲームオーバーになることで敵の動きを)覚えるから「しにゲー」とか言ったりするらしいですね。

 

最近、アセットとフローという言葉を覚えました。

 

アセットは資産という意味で、

フローは流れとか一定期間のお金の流れみたいな意味です。

 

センスとか感覚はフローで、それだけでうまく行くこともあるんですけど。

 

最終的にはアセットがないと、手元に何も残らないんですよね。

 

だから、継続って大切です。

 

何でも良いと思います、ゲームでも漫画でもスポーツでも勉強でも。

 

何か1つ、これだけは誰にも負けないってくらい続けたものがあれば良いのです。

 

それだけで、社会で生きていけます。

 

例えば、バイオハザードというホラーゲームがありますが、どれだけ早くゲームクリアをしてエンディングを迎えられるかという競争のような遊び方があります。それをRTAといって、世界中の人たちが遊んでいます。

 

遊びなんですけれど、工程を考え抜く必要があるんですよね。まずは、どこでどのアイテムを取ってそのあとどうする、ってゲームクリアまでの工程を考えて、それに沿ってゲームをプレイするんです。

 

実はそれって仕事でも必要な能力なんですよね。業務には締め切りがあるので、どうやって処理するかスケジュールを組むんです。

 

もしあなたが1つでも続けているものがあるのならば、将来に応用できるはずです。

 

もし何もないなら、割と長くやっているとか、比較的好きだと思うことでも大丈夫です。

 

結局、仕事も遊びも考えることなんです。

 

考えないで指示の通りにする仕事もありますが、それは身体を使いますよね。どちらも社会に必要な仕事です。

 

結論として言いたいことは、

 

やりたいことをやりましょうってことです笑

 

今しかできないことを今のうちにやりましょう。不登校なら尚更です。

 

他人の目なんか気にしないでください。他人を故意に傷つけるとか、犯罪になることはダメですけど。

 

不登校で10代のうちは、なんだってできます。私が不登校の頃は、大人になったらもっと自由だと思っていましたが笑

 

あなたのことを応援しています。

 

enoki

 

障がいを肌で感じる

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目に見える障がいと目に見えない障がい
こんにちは、たっきーです。
3月に入りましたね。晴れた日は暖かく、雨の日は肌寒く、春と冬を行ったり来たりしているような季節ですね。僕も少し風邪を引いてしまいました。
 
さて、今回は自分の今ある状態からブログを更新したいと思います。
実は2月の中旬から持病である椎間板ヘルニアを再発症してしまい、寝たきりに近い生活を送っています。椎間板ヘルニアとは、背骨の中にあるクッションが椎間板と呼ばれているのですが、何かの拍子にそのクッション(椎間板が)背骨に沿う神経に向かって飛び出してしまい、主に下肢に障がいを来たす病気です。僕の場合、右足の外側が常につっているような感覚で、人によっては針に刺されるような感覚を感じるそうで症状はまちまちなのですが、痛みから右下肢が動かせない状況で寝たきりの生活を最近は過ごしています。
 
実は発端は高校生の頃でした。
剣道の試合の際に腰を捻り、ヘルニアを持つ体質になってしまったんです。
一度、その頃も入院しました。高校時代は一度も休んだことのない僕でしたが入院したことで皆勤賞を逃してしまうことになりました。それ以上に大きなショックは足が動かせない不自由さを身を持って体感したことです。
 
皆さんは片足が動かせない気持ち、って理解できますか?
 
僕は入院するまで理解できませんでした。したつもりでいても、片足が動かせないだけでADL(日常生活動作)が著しく阻害されてしまうことに初めて気づかされました。
 
そして今、また持病のヘルニアが再発して寝たきりの生活を送っています。
忘れかけていた、不自由さを改めて痛感しました。身体に障がいを来たす気持ちは改めてなってみないとわからないものなんだと感じました。
 
僕はADHDという知的障害を抱えておりますが、目に見える障がい(身体障害、一部を除いて)精神障害も身体障害も自分自身で自覚してみないと分からない気持ちがあるのだなと思います。
 
僕は今、杖をついてやっとのことで歩行しています。
先日、病院へ行く際にバスに乗りました。優しい方が僕に席を譲ってくれました。
杖を持ってぎこちなく歩く姿に僕が障害者であることが分かったのでしょう。
日本ではそうした光景を良く目にしますし、自分も健康な時は席を譲るように心がけています。でも目に見えなければどうなのでしょうか。
 
改めて僕は精神障害という壁にぶつかりました。
ヘルニアで病院を受診した際に自分がADHDの薬と抗うつ剤を摂取することを伝えると、精神科から薬(鎮痛剤)を処方してもらうように言われました。
理由は抗うつ剤などによって鎮痛剤の効き目が悪くなる可能性があるとのことでした。
 
しかし、僕はそんなに歩けるような余力はありません。
精神科は予約しないと受診することができません。
 
鎮痛剤の処方は先送りになり、結果として痛みを堪えながら寝たきりの生活に近い状態を今も続けています。
 
専門家の違い、それもあるでしょうけれど…
僕は納得がいきませんでした。とにかく痛みを抑えたいのに鎮痛剤が処方されない
 
精神科の薬とはそれほど副作用の強い薬なのだと改めて実感しました。
そして僕はそれを処方されていたことに、その時になって不勉強ながら知ったんです。
 
精神に病を抱えている場合、外見からはとてもわかりにくいです。
でも、とても精神障害による身体へのストレスは心身ともに大きなものであると実感しました。
 
以前、僕が紹介したASD自閉症スペクトラム)であることを外部に伝えるためのカラフルなパズルで構成されたリボンを紹介しましたね。

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着けるか着けないかはご本人の自由だと思います。でも認知度の低いものでした。精神に障がいを抱えていても心身に与えるストレスは大きいものだと僕は痛感したからです。

心にも身体にも影響を及ぼします。認知度のまだまだ低いリボンですが僕としては広まりを見せて欲しいと願うものです。それは精神だけでなく身体にも影響を与えるからです。
症状はこちらも人によりまちまちですが、人によっては虚弱体質、過呼吸など、とても辛い症状を持ち合わせている人もいます。それ故に障がいとして世間に広く認知されて欲しいと僕は願うんです。
 
そして専門家の間(医師の間)でも情報連携がスムーズに執り行われることも願います。
自分は専門外だからではなく、外科だろうが内科だろうが、精神薬の知識を身につけた先生が多くなることを僕は望みます。
 
精神薬というものはやはり、副作用の強い薬として、専門家(医師の間)でも敬遠されがちです。身体に生じた障がいに対して同時に対応できるように僕は精神薬の適切な対処法の広まりについても願いたいと感じる今です。
 
なかなか辛いです。
精神薬を飲んでいるが故に鎮痛剤が処方されないので、毎晩、痛みから耐えています。
精神科にかかりたくても家から遠くてなかなかかかりつけられないのが僕の事情です。
いつになったら緩和するのでしょうか。
 
僕はただひたすらベットの中で痛みから耐えながら現在は自然治癒を待っています。
いつになるかな…不安は積もる一方です。
 
先ずは、改善したら精神科への受診、そして整形外科への受診と二段階の流れが必要です。それがただ一歩踏み出せないのが僕の現状です。
 
障がいとは、やはり肌に感じて初めて分かるものです。
足が片方動かせないだけで、これだけの苦労があるのかと気づかされます。
障がいは程度に寄らず平等に周囲に認知され、世間の理解を精神障がい、身体障がいともに広めることが大事だと改めて痛感しました。
 
髙橋直之

ボクノート

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あるがままに生きること
こんにちは、たっきーです。
久々の連日となる投稿になります。仕事の合間にブログを更新しています。
 
ボクノート』それは僕の好きな楽曲の名前です。
スキマスイッチさん、自分の気持ちを正直に伝える大切さを教えてくれた歌です。
 
このブログではずっと、僕とenokiの考え、推論も含めて投稿してきました。
でも、何故そうしてきたかというと、僕らには辛く、悩んだ過去があり、それを今は前向きに捉えたいと考えている自分もいるからです。
皆さんにも振り返りたくない過去はあると思います。もちろん過去を振り返ることはあまり良いことではないと思われます。過去にばかり囚われていては自分のこれからを、将来を見過ごしてしまうように思えるからです。
 
でもね、ここで何故、赤裸々に過去を投稿しているかというと
誰もが隠したい過去はあると思います。でもその誰もが隠している過去の氷山の一角である僕らの過去感じた思いや悔しさを言葉にして残すことで、今、その立場に置かれている人にとって「決して一人ではないんだよ」と伝えたいんです。
 
僕は僕で、あなたはあなた
置かれていた立場や事情は全く違うものかもしれません。
 
だから、ここに書いていることはほんの一例として捉えて頂けたらと思います。
 
改めて僕は、大人になってからADHDであることが分かりました。
それまでは、なんとなく周囲と馴染めない、自分の性格のせいで周囲と溶け込めないのだと感じで学生生活を送ってきました。時には一匹狼を気取り、時には寂しさに泣き、そんな日々を過ごしてきた学生生活でした。
特に寂しさを感じたのは学生時代のことです。小学校、中学校と、なかなか友達ができなくてひとりぼっちでいる時間が長くありました。
 
「どうして自分は周囲に溶け込めないの?」
「仲間外れにされてしまうの?」
 
そんな疑問を抱きながら過ごしていました。
その時に強い悲しみと寂しさを感じて育ってきました。いじめ、引きこもり、親との対立
自分の居場所は当時、どこにもありませんでした。
 
「自分の境遇を理解できる人なんていないんだ」
独りよがりになっていた節もありますね。今思い返すと、とても嘆かわしい…
 
でも当時はそうすることしか方法がなかったんです。
子どもの力で変えられる力は、ほとんどないんです。
結局、先生や親に頼らざるを得ない。気づいてもらえるまで僕は一人で過ごしていました。そんな時に手を差し伸べてくれたのが中学二年生の時から担任になってくれた先生でした。無理に学校へ通うことを強要せず、土日に投稿して個別授業をする提案をしてくれました。ただでさえ休みがないのに、その先生には今でも頭が上がりません。
 
僕はプライドの高い人間でした。
いじめられていることなんて親にも言えなかった。
仮病を使ってズル休みをしていました。
 
格好の悪い自分を晒したくない。でも先生はその気持ちが分かっていたように接してくれました。まるでいじめられている事実を知っている。(実際は知られていたのでしょう)
でもそれでも、いじめの事実を公にすることなく、僕の意思を察して個別授業を開いてくれました。
 
僕はどうやったら友達ができるのだろうか?
 
ずっと悩んでいました。自分が周囲から浮いているという感覚は自覚していました。
色々試してみました。明るく振る舞ったり、笑って見せたり…でもどれも空振りでなかなか友人と言える仲間が作れずにいました。
 
僕はどうしたら普通の人になれるんだろう?
そう感じ始めたのは中学生の頃、明らかに自分は違っていると感じたのはその頃でした。
でも、その理由や原因が分からずにずっと悩んでいました。
 
そもそも普通ってなんでしょうか?
大人になった僕にも、未だに解けていない謎です。
とは言っても、「普通の人間だね」と処理されてしまうのもオリジナリティがない。
僕は何を求めているのか、未だに分からずにいるんだ。
 
でも、「個性的」と表現されると嬉しくも感じるし
なんだか自分が受け入れられたように感じるのが最近の僕です。
学生の頃はずっと「普通の人」に憧れていた。でも大人になった今は個性的な自分を評価できるようになったように感じるんです。
 
あぁそうか、個性か
 
もちろん周囲に迷惑をかけることは良くないです。
やっとできた友人とも沢山ケンカしたり怒られたりして社会のルールを学びました。
何をしたら嫌われてしまうのか、その友人から学んだように感じます。
 
だから今は周囲に迷惑をかけないように、正直、慎重な姿勢で対人関係を気づいているように思う日々です。自分の何食わぬ行為で人を傷つけかねない。
ADHDと診断を受けてからは「やっぱりそうだったんだ」という安心感と、「やっぱり普通じゃなかったんだ」という気持ちが交錯して複雑な心境でした。
 
だから今は、慎重にならざるを得ない、それが僕の正直な心境です。
相手の顔色を見ながら、出過ぎたマネをしていないかな?傷つけていないかな?
常に言葉を選ぶ日々です。ちょっと疲れます。
 
でも、それが学びなんだと前向きにとらえるようにしています。
ぎこちない生き方でもいいじゃないか、それでも前向きに進めているのならばいいじゃないか。そう考えるようにしています。
 
決してさ、格好良い生き方ではないです。僕は。
でも、だからって下を向きながら生きたくないんだ。
僕は僕なんだと。ぎこちなくてもいいから社会に溶け込んでいけたらいいなと思うし、逆に個性派として生きて行けたら今は良いと思っています。
 
そう、あんまり気にしないようにしているんです。
自分がADHDであると知った日から僕は、諦めと、諦めたくないという二つの気持ちに背中を押されたんです。まるで自分が病名がついて安心しているようですが。でも、その通りかもしれません。でもそれは病気のせいにするのではなく、病気を個性として捉えて自分の特性を知れた、と考えています。
 
小学生や中学生の時に「どうして僕は違うんだろう?」
そう感じていた日々からやっと解放されたように感じるんだ。
 
自分を上手くコントロールすること
自分の個性を最大限に発揮すること
 
ASDに負けないんだ!
僕は僕の人生を生きるんだ、と最近感じたことです。
 
今日のブログは長いひとりごとのようでしたね。
でも、そんなひとりごとに少しでも、救われる人がいるならばと、僕は精神的に広い器を持ってこのブログを書き進めていこうと考えています。
 
髙橋直之

頑張り過ぎないために

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ちょっと疲れた時に読んでほしいメッセージ
こんにちは、たっきーです。
寒くなったり暖かくなったり気候の変動が激しいですね。
皆さまもお元気でしょうか。
 
年度末が迫るこの季節ですが、皆さん頑張り過ぎたりしませんか。
学期末テスト、人によっては入試試験本番。社会人では年度末の決算など
学生も社会人も皆んながちょっと大変な思いをするのがこの季節です。
ブログを読んでくださっている皆さまの心の健康と体調はいかがでしょうか。
 
僕の場合、この時期体調を壊してしまうことが多くありました。
学生の頃も、社会人の今も…
 
僕は入社を控えている4月までフリーランスシステムエンジニアの仕事をしています。
この時期に入ってくる仕事は納期が短く、更にお客様の要望も焦燥されていることからとても強く、難しい内容になっています。
 
僕も正直、今現在焦っていないかというと嘘になるかな
でも学生時代から変わらないかもしれません。どうしてもこの時期になると「学期末だぁ」「年度末だぁ」と頭を抱えてしまいます。でもちょっとは成長したのかな。上手にサボる癖を身につけたからです。
 
上手にサボるとはどういうこと?
 
僕は頭の中に貯水槽のようなものをイメージで作っているんだ。
今どれくらいのタスクを抱えているのか常に頭の中にイメージして満タンになって溢れ出さないようにしているんだ。つい忙しい時は自分でコントロールできない時もあります。でもなるべくタスクを抱え込み過ぎずに、頭に余裕を持たせているのが僕の最近のやり方なんです。
 
僕はシステムエンジニアです。ちょっと例えが偏りますが、今からパソコンを元に例を挙げて考えてみます。
 
ストレージとメモリの違いは皆さん分かりますか?
 
ストレージは溜め込むタンクのようなもので
メモリは自分が作業するスペースと例えましょう。
 
人間は機械ではありませんので、ストレージに記憶やタスクを溜め込みすぎると忘却が始まります。忘れていっちゃうんですね。こればっかりは仕方がないです。
 
メモリで考えてみましょう。あなたはどれだけの勉強や仕事をいっぺんにこなすことができますか?マルチタスクとも呼ばれますね。手際が良ければどれだけ抱えていても自分で処理できる能力があると思うのですが、僕はその逆で、一つのことに集中しないと他のことがなおざりになってしまうタイプです。更に言うと一つの事に集中している時は他のことが全く視野に入らないどころか、そこだけに集中し過ぎてしまいます。自分の特性のADHDというものもあると思うのですが、それに気づくまで時間を要しましたし、気が付いたのは大人になってからでした。
 
はい、そこで!!
皆さまはどれだけのストレージとメモリを自分の頭の中に確保しているか認識されていますか。自分の限界というものがあります。パソコンも同じでオーバースペックするとフリーズして動かなくなってしまいます。
 
この記事でお伝えしたいのは自分のできる範囲というもの以内にタスクを設けることです。時と場合によってはそれができない場合もあります。外的要因によって、自分のタスク管理ができない時もありますね。というかそれが、ほとんどでしょう。
 
じゃぁ、どうしたらオーバーしないの?
 
僕は自分の出来る範囲を予め周囲に告知する事にしていました。
元から仕事も勉強もできる性分ではありません。自分の限界を知るということが大事なんです。そしてその限界を予め周囲に告知しておくことで、自分に入ってくるタスクをコントロールすることができる一つの手になります。
 
しかし受験生や学期末試験前の学生はどうするのよ。
勉強には終わりがありませんね。どこまで勉強しても自分が満足する結果を出せるかどうか不安と背中合わせな日々を送る事になりますね。とても不安です。だから闇雲に勉強を頑張るのは良くないですよ。
 
僕は今、とある国家資格にもチャレンジしています。
だからなんとなくですが学生時代を振り返るように勉強の苦しさは分からなくもないんです。その時にこうじている事はやはり自分に終点をつける事です。
モリーとストレージの話をしましたが、もう一つ大事なものがあります。それは体力です。自分の体力の限界も知っておきましょう。そしてどこまで、勉強するかを時間単位で決めて行う事です。最初は難しいかもしれませんが、闇雲に勉強しても良いことはありません。自分の体力を越してしまっては試験本番に最大限の力を発揮できないと思うのです。更に体調を崩してしまっては元も子もないですよね。
 
だから、これは甘い考えだと批判される可能性もありますが…
自分の頑張れる範囲内で頑張ることが最大限の努力だと僕は思います。
根性論ではありません。人それぞれペーストいうものがあります。そのペースを乱して頑張る必要はないと僕は考えているんです。何よりも自分ファーストに。
 
身体は最大の資本です。
資本を失っては人間何も生産できません。
生産性を最大限に高めるためには、自分の限界をきちんと把握することが大事だと僕は思います。
 
僕は学生時代から多くの失敗をしてきました。その失敗の数々もブログで赤裸々に綴っています。でもその失敗があるからこそ、今の僕があると思うんです。
 
先ずは失敗していいと思います。
とにかく失敗して、そこから学ぶことです。
失敗した!と思ってもそこから学び次に繋げることは失敗ではなくなり進歩になります。
進歩するためには失敗の経験は通らざるを得ないと思うんですね。
 
僕の恩師の先生も言っていました。
「若いうちにたくさんの失敗をして経験を積みなさい」
と、正にその言葉の通りだなと僕は今実感しています。
 
年度末、そして入試、学期末を控えた今だからこそ伝えたいメッセージをブログに今回認めてみました。ちょっと、いつもとはテイストが違いますが、今回は頑張る皆様へエールの気持ちを込めて言葉を並べています。
 
どうかご無理はなさらないように
 
髙橋直之